Saturday, May 21, 2016

Saturday, April 9, 2016

【SBS】第60回会合報告:『変えるべきか創るべきか、それが問題だ――伊藤昌亮〈デモのメディア論〉論』

「関係のための関係」 「ほぼ分析を伴わない表現及び他者の表現の認証及び認証したことを踏まえての表現」の単純繰り返し。
「政治の種類?形態?或は市民の政治意識?的には、昔⇒ちょっと前⇒今また"昔"へ、と(意図せぬ)回帰」が見られるが、これは、個々人のレベルでは、特に今も昔も(ちょっと前も)ほとんど何も変わっていないことの証明なのではないか?つまり、メディアの方が、デモという実体を伴う行動よりも、参加者にとっての実体となっているような、「関係のための関係作り」というと何か新現象?のようにも感じられるが、メディアがいかに多様化しようと、情報の内容が変容しようと、人は別段「分析」はしない。何となくの雰囲気で生きているだけ。というなんというか、分かり切ったことの確認のような感じ。
「分析しない」というと理性(の欠落)の問題のように思われるかもしれないが、実は、この「特に分析はしない」というやり方こそが、私たち人間の'理性'であって、より知的にも心理的にもそして多分体力的にも楽な方を'選択'している、ということではないのか。
そうすることによって生じている不安感はあって、その正体とは、「何か大事なものをぬかしているんだろうなぁ」というなんとなくの罪悪感というか、道徳的な義務不履行の感覚ではないか?と考える。
「特に分析はしない」何となくの'理性'に、この何となくの罪悪感(これはおそらくほぼ消し去ることができないもの)を絡めて、大衆、公衆、群衆の分析をすると面白いのではないか?(今後の社会をどうするのか?新しく創るのか?変えるのか?を分析・議論する上で)
私の印象では、現在のデモおよびSNS等メディア上での活動は、道徳的義務不履行の感覚にはあえて注意は向けず、とりあえず「新しく社会を創る」というストーリーを共同で作っておいて、その実、個々人としては「内にこもる(敢えておっきなところ(世界平和とか )は目指さない。)」を選択しているように見える。結果として現れる社会は、割と似通った階級、思想、趣味のコミュニティに細分化された社会。よって、各々が内に籠ることができている分には十分に安定的であるものの、ややもすると他者敵視戦略が横行して一気に不安定さが露呈するような脆弱な社会に見える。
脆弱性をさらに強めている要素として懸念されるのが、「新しく社会を創る」のストーリーを作る仲間が見つからない人間が相当数いて、これは増加傾向にあるのではないか?ということ。つまり、この層の人々は、他者敵視戦略を積極的にとるグループに比較的容易に動員される可能性が高いと思われ、社会全体にとっての危機となりうるのではないか?
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Friday, December 11, 2015

Sydney bridge

not sure about the name of the bridge

Sydney bridge

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Sydney opera house


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Friday, October 16, 2015

僕が「身体論」を嫌いな訳

最近よく聞く「なんとかと身体」という著述。
私の身体感覚がどうしてもすんなりと受け入れない。
難しいことなのだけれど、身体感覚を重要視するなら、それを「身体感覚」と呼んでは矛盾するのだ。
論ずる以上言葉を使用することは前提とされている。
であるならば、身体感覚を直に説明する論というのは成り立たず、言葉を身体感覚の一部として扱うしかないはず。
「言葉を身体感覚の一部として扱う」とは、少なくとも「身体感覚」を説明概念として使用しないということのはずだ。例えば、言葉は単なる情報媒体ではない、ということを様々な感覚を引いたりしながら、描いていくしかないだろう。つまり、言葉をあたかも私たちが様々感じている物事、言葉にできない雰囲気などなどの分身のようなものとして説明する。或は、言葉を感覚として説明する、とも言えようか。

「言葉を感覚として扱う?」
どうやって???
いや。可能でしょ?
言葉は表象媒体(記号)でもなければ、情報伝達のための道具でもない。
私たちの分身のようなものであると同時に返す刀で私たち自身を形作るもの。
感覚そのものじゃん?言葉って。

身体感覚を身体感覚と呼んでは、身体論の要点が損なわれる、というのは、何かが個人に排他的に属する、というニュアンスを否定できないため、どうしてもそれを「把握」しようとさせる。
これも身体感覚の実体を説明できなくさせる。

要するに、身体感覚といった神秘的な、ちょっとやそっとでは表現できないものについて、「それが大事」と言いたいなら、個人個人の間にある物理的な境界についても、それを前提として語ることはできない、ということ。

それよりもなによりも、「うふふ。。あなたたちは随分ご自身の思い込みに影響されてますね。。だから"本当の"身体感覚を感ずることが難しくなっている。或は、"身体感覚なるものが何か?"がお分かりでない。では、ほんのさわりから伝授申し上げましょう。。」とかって。。。

詐欺師っぽいと感じるのよね。。。

詐欺師になりたくなければ、本人はどれほど身体感覚を鋭敏に保つことが自然かつ重要と信じてはいても、「なんとかと身体感覚」みたいな看板を掲げてはいけないのだ。さもなくば、「自分だけは秘密を知っている」感から逃れられない。これは、意図していなくとも、追従者を「全能を夢見る人」へと導いてしまう。身体感覚というのは誰か個人の固有の所有物などではないのだ。よって、教えたい人も、「知識を与える」という態度ではなく、どちらかというと、協働して、感じ方を工夫しながら高めていく、というスタンスの方がより身体感覚を重視したいという主旨には適合するだろう。

言葉の力というのは別にメッセージの伝達能力ということでもない。
私たちの力、と言ってもいいぐらいのもの。
身体感覚と世に言われているものも全てここに含まれている。
言葉になってしまったら、理性が邪魔をする、と決めつけるのは、実は身体論者の主旨に反するのだ。
むしろ言葉でさえ身体感覚を持って理解できる(すべきだ)し、身体感覚でもって駆使するべきだ、と主張した方がより主旨に沿うはずなのだ。
「理解する・できた」という感覚だって身体感覚と関係あるはずなんだしね。

言葉でもって、詩とか歌とかが成り立つというのも、言葉が身体感覚の一部であることの証拠なんだし。
身体感覚論者としては、このミステリアスで中々腑に落ちにくい言葉の力を、私たちの日常生活で実践的に活用されている能力と関連付けてみる、というのも一つの選択肢であるような気がする。

ともかく、芸能であろうと数学であろうと、表象記号を用いる以上、それらの記号は単なる道具・媒体などではなく、私たちの様々な活動(感じる、感知する、考える、観察する、読むなどなども含む)から、その痕跡のような形で認識操作可能な物的質的性質を獲得していくもの、と前提するべきだろう。記号を使うから抽象性が高くなる?それはそのとおりかもしれないけれど、いかなる記号も私たちの感覚から切り離されはしないのだ。やはり、一見無機的に見える数字などの記号に、私たちの生きている痕跡を感じること、読み取ろうとすることこそが、いわゆる身体論者達の論ずるところを正当なものとするのだろう。



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Friday, July 17, 2015

もう少し力抜いてもいいじゃない

http://kiwamono.blog.so-net.ne.jp/2010-03-09



"これからの時代を考えたときの「各自の生活を美しくして、それに執着する」とは、どういうことなんだろうか。"

まず、本記事のタイトルは、冒頭の3つのリンク記事に対する批判、感想などではありません。

2番目の記事の「反対ではなく平和を祈る」のインパクトが強いので、色々と考えさせられた、ということはありますが。。。

で、1番目と3番目の記事にも引用されている吉田健一氏のことばを思い出したのです。
そして、3番目の記事から引用させていただいているとおり、「各自の生活を美しくして、それに執着する」とは具体的にどういうことなのか?
それを考えることこそが大事なのではないか?と思うのです。
特に1番目の記事に、吉田氏の他の文章がレヴューされていて、それらがいいヒントになっているな、と。

私の考えているのは、「各自の生活を美しくして、、、」というのは、自己との対話というか、己の大切なものとは何か?という問いに関わっているのだけど、日本の特色として、それほど自己とは何か?それが大切に思うものとは何か?というようなことに対して、厳密に定義したりしない。

で、厳密に定義しないことというのはいけないことなのだろうか?と。

現在の安保関連法案への反対運動を見ていて感じるのは、どちらかというと、何事も厳密な定義に基づいて、論理的に議論を組み立てていけば、立憲主義や国民主権をないがしろにするような国会運営、政局運営は許されないことというのが明らかにされ、もって暴政の芽を摘むことができる。或は、将来的な戦争参加、それに伴う国民一般への不利益・不幸も防ぐことができる。そんな感じのまことに全うな正義。の主張。

ただ、もしも運動が功を奏して、法案が廃案になったとして(そうはなりそうにないけど)、廃案に追い込んだという事実以上の何かを得られるのだろうか?つまり、憲法9条が守られた!と喜ぶことはできる。その後の話。

意地悪な言い方だけど、憲法9条は現行憲法の成立以来ずっとあった。その状態が維持されるというだけで、私たちは安心して暮らしていけるのだろうか?

で。「平和を祈る」もいいけど、私はどちらかというと、「各自の生活を、、、」の方が大切と思うのだ。
さらりと言っているけれど、実際めちゃくちゃ難しいというか、チャレンジングなことだと思う。
各自なんていうぐらいだから、本当に様々な生活があることが想定されているし、美しくというのは正しいとか立派とかどうしても階層的・排他的になりがちな価値観ではない、より普遍的なものを追求している感じがする。
さらには執着だから。。
これこそがわが同朋にとっては最もチャレンジングなのではないか?と思う。
私は、吉田氏の文章の文脈では、この執着というのは愛に近いと理解する。
執着にしても愛にしても、ただ、、インパクト強いのよね。。インパクト強いというのは、聞く者のやる気を鼓舞してしまうというか、一生懸命やんなきゃウソなんでないの?と思わせてしまう。
もっとこう、緩い感じでいい。
何故なら、一生懸命各自の生活を美しくして、それに執着してみて、見えてくることは、必然的に自他の逃れられない相対性だから。一生懸命考えてみれば、絶対「自分だけのが絶対美しい」なんて気持ちにはなりっこないから。
世界平和みたいな大仰な理想も、全てそこからしか始まらない。
何処からどう見ても間違っているようには見えないからといって、それに全てを依拠させようとすることは危険だ。
どちらかというと、世界平和が中々成らないのは、絶対正しいとかいうものに人間はどうしても頼ってしまうから。本当の強さ?執着心?というのは、敢えて曖昧さを許容することにある。他人から狢のようだと揶揄されようが、「まあまあ。とりあえず飯食って酒でも飲みましょうや。」って言えるような。強く主張しない信念があったっていい。というか。。いろんな人にいろんな人生とか感じ方があるのだから、信念というのは念じ、口ごもるようなものであるべきではないか?美しさってそういう真に念じるところから滲み出るようなものなのではないか?行動したり、発言したりしなければ何も始まらない。そう思いすぎているのではないだろうか?
真の意味での自他の尊重。
勿論行動することも発言することも尊いこと。でもさらに発言できない行動できない本当に様々な事情だって尊ぶべきなのだ。だって、そんな事情を日々生きているのだって生身の人間なんだから。
唯一絶対なんかより、とりうる選択肢は多い方が絶対よい。
特に勤勉猛烈系の人は、のほほん怠惰系を見て怒ったり、蔑んだりせず、それのどういたっところが広く社会的に問題なのか?利点は本当にないといえるか?勤勉猛烈に検証してもらいたいと思う。

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Thursday, July 16, 2015

安保

考えさせられる。
国会前や大阪梅田等でも沢山の人々が集まっているようで。
考えさせられるきっかけは、Twitter上で国会前に給水車、で、ありがたい、という感じのツイートを見かけたことかな。。

現行憲法第9条を実質無効化するということには、私は反対。実はそんなことよりも、日本が軍隊を持っていることに反対。
ものすごい左翼思想だと多くの人は感じるだろうけれど、左翼なんてもんではない。どちらかというと究極のフェミニズムというか、徹頭徹尾陰の存在を主張したい、という思想です。
日本の文化の特色の一つに、この陰の方にもついつい思いを馳せてしまうということがあると私は感じている。
表があれば裏もある。という感じかな。
そういう感覚というのは多分何も日本人特有の感覚ではないと思う。
相当乱暴にざっくり表現すれば、現代人はついつい馳せてしまう陰の方への思いを、様々な理由によりあたかもなかったかのように扱わされ、それを継続しているうちに陰なんてものはないかのように振る舞い考える人が増加してきている、ということだろう。
言葉を失うということはげに恐ろしいことだ。

で。それで何で日本は軍隊を持つべきでないと考えるか?
ついつい陰の方へと思いを馳せてしまうような人に、近現代風の戦争なんてやってもらっては困るから。
近現代風の戦争というのは、国民国家?主権国家同士の戦争。
徴兵をはじめとして、ありとあらゆる資源を国家が総動員して戦うような戦争。
そんな強大な権力をもつ現代の主権国家ではあるけれど、各種運営を担うのはただの人。
先の大戦などを踏まえ、散々言われているとおりで、そんなただの人々、主権国家が発動する強権に見合うだけの責任や義務は負えない。と多分日本人の多くが感じている。感じているから本当にそうなる。誰も「おれが責任取る」なんて言わないし、そんな風には振る舞わない。上のお話。
で。下々は?これもやばい。だってついつい陰の方にも思いを馳せてしまうんだもの。様々複雑な思いを抱えつつ。。でも結局長いものには巻かれちゃうのよね。
様々複雑な思いを抱えているから、そりゃ実際のところはまあ様々醜いというかえぐいお話も出てくる。
そういうことがなかったとしても、それでも上は自らが行使する権力について責任も義務も感じないし、下は下でかなり容易に「仕方ない」と思ってしまう。そんなんで一度きりの人生、命が扱われてしまうのってどうよ?ということ。
人の人生なんて切ないもんだけども、一人一人の命の尊厳みたいなものを諦めてしまうというのはよくないことと思う。特にまだ人生の世知辛さなんて経験していない幼子とか、これから生まれてくるであろう命のことを想うとね。「ほんじゃなんで俺ら産むねん!」ってことじゃん??産み落とされる側からすれば。尊厳をあまりにあっさりと諦めるってことは。
命の尊厳というのは日本人であろうと外国人であろうと変わらない。よって軍隊なんて普通の主権国家並みに持って、戦争なんて手段にうったえてはいけない。だって自国民の命だって相当軽々しく扱いつつ、他国の人々の命まで奪ったりするのよ?行使するパワーに見合った責任や義務を負う気持ちもない人に殺されてみるってどうよ?ってことで日本は軍隊なんてもっちゃいけないの。

そもそも責任とれないし。いやいやそれは分からんでしょ?とか変えてかなきゃ!とかいう男前もいると思うけど。歴史を振り返って、無理だから。そもそも日本人ってそんな男前じゃないというか男前にはなりきれないのよ。で。男前でないと生きていけないのか?というとそんなことはない。それは個人レベルは勿論、国家みたいな大括りのレベルでも言えること。軍隊持たないで口先八丁だけでなんとかやってけないか?ひとまず言えることは、男前になりきれない、という特性にだって利点はあるということだ。当の本人たちがその価値をあまり積極的に認めていない。そんな風に感じられる今日この頃。安保関連法案については、審議の経緯とか、採決の方法とか、全て問題ありと思うけれど、それに反対する運動が、どうも空々しく見えてしまう。多分私たちは真剣です。と主張するだろう。こういう時に行動を起こさないでいつ起こす?とも言えるだろう。言い分は十分に分かるのだけど。本当の危機というのはそこじゃないと思う。開国以来?明治以降?誰も男前に(西洋風に)「男前になりきれなさ」を分析して、なりきれない本人たちに「それは使いようによってはいいものだ。でもこういう点は注意しよう。」みたいな貢献を成してこなかった。それぐらいにわれわれの「男前になりきれなさ」は徹底しているものだ。と。せめてこの程度には自らに向き合い、それに基づいて自他ともに愛せるようになってもらいたいと願うのです。


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Sunday, June 7, 2015

日本創生会議への違和感

まだ漠然としているけれど、これだけは確か、と思えるのは、日本の伝統と西洋由来の合理主義のミックスの仕方において、最悪なコンビネーションがここでも如何なく発揮されているということ。
シンプル化すると、ヒトの命は軽く、だからこそ計量可能だ、というもの。

「地方創生」とか「地方再生」とか言うけれど、そもそも「地方」という言葉はあまり有効でないような気がする。
この「地方」という言葉が意味をなすのは、「中央」との関係性において。
したがって、「中央」と「地方」とがどうしても存在する、現状の主権国家を大枠とした統治形態において、政治家なり、行政なり、思想家なりが、「中央」と「地方」とを、単なる対立概念としてではなく、どちらも日本国民が生活する場として、政策枠組み、行政枠組み、および思想枠組みを検討・構築・見直しを不断に行っていなければ、「地方」というのは、単に、経営的に非効率で、土地(都市部からすると貴重な資源)だけは余っている、というような捉え方しかされえないから。

こうしたいわば国家とは何か?に関わる制度、政策、思想が一朝一夕にして変わるとは思われない。
ゆえに、私としては、現行の行政、各種社会福祉制度がこのままでよいとは到底思わないけれど、「人間が平均して80年もの人生を過ごしていくということはどういうことか?」。その考え方を地道に充実させていくことに集中したい。いわば、急がば回れ。
「この逼迫した危機から目を背けるか?」と「待ったなし」派の声も小さくはないだろう。
が。
人間の歴史って短いけれど、結構長いこと(2千年とか)色々なデータを残してくれている。
それに基づけば、「目先の不安感に煽られてあまりいいことはない」ということ。
それよりも、自分達って一体何なのか?人生ってどう送ることができればまあまあ充実感持って死んでいけるか?とかをきちんと考えられるようになる方がよっぽど大切だと思う。何故なら、一寸先だって実は闇だから。みんな「予測できることも予測しようとしないなんて馬鹿だ!無責任だ!」って思っているようだけれど、その「馬鹿!」「無責任!」って断言だって、実はそれほど確証が持てているわけではない。いくら「いやこの程度は絶対です!」と強がってみたところで、その人だって究極の真理なんて何も断言などできはしないのだから。一人の人間である以上。どちらかというと、知りもしないクセに「絶対」とか言ってる時点で、そっちの方が倫理的に問題ありとも言える。

発言するなら皆の希望が湧くように。「いや。この程度は基本やし。全く馬鹿を疎外しようなんて考えてないですよ。」なんてこと言っていたって、圧倒的多数の知性に優れた方の人々は、「自分は大丈夫」ってボーダーを引いている。それはいくら善意にやったってどうしようもないことなんだと。そのような気づきがない以上、自らのパワーがより弱い人々の選択肢を狭める方向に作用してしまう、ということなど気づけないだろう。要するに平気で、いいことしているつもりでかなり多くの人間の人生にマイナスの影響を及ぼしてしまうということ。これなんとかしないと、いつまでたってもくだらない争いが絶えないだろう。
一人一人感情は持っていて、加えてその人なりの「正しさ」の感覚だって持っている。
そういったものの圧倒的多数は表に現れず、流れ去っていってしまっている。
勿論全部100%を認識し、それを踏まえて行動したり発言したりなんてことは不可能。
だとしても、自分もヒトなら他者もヒトだ、ぐらいの認識は必要だろう。


やっぱり学校?私塾?かなぁ。。。やるべきことは。。。お金とか稼ぐための能力開発だけではなく、人間のこと考えていたって、生きていくこと、多少の人間を養い、育てていくことは可能だ、ということを示さなければならないし。。。
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Tony Soprano and reflexive socialisation in late modernity | The Sociological Imagination

Tony Soprano and reflexive socialisation in late modernity

Posted By Mark Carrigan
Watching the Sopranos, I was struck by what a good example this was of what Margaret Archer argues are the consequences of the intensification of social change for intergenerational socialisation: the decreasing likelihood that children will encounter occupational roles familiar to their parents will tend to increase the degree of reflexivity with which the parents orientate themselves to the lives of their children. If they don't feel they understand the occupation world their children are entering tha[e]n what might have otherwise be a transmission of normative guidance is more likely to become a generalised expression of support as they make their own choices.

It seems that Margaret Archer's reflexivity builds upon dubious conception of self-other relationship.

To orientate one to particular others' lives does not seem to be increase of reflexivity, in my view. It rather appear to be one's self-serving assumption that one can appropriately sufficiently imagine such particular others' lives. In other words, if reflexivity refers to one's capacity to imagine certain others' lives setting aside one's own, it should orientate one towards one's own, rather than such others', experiences. While it may sound quite the contrary, it is actually not. Just remember: Can any of us assert that s/he even sufficiently appropriately manages to imagine any other's lives? The answer is definitely 'No'. Then, so assuming is quite the opposite to the increase of reflexivity thus decrease of it. The increase of reflexivity should lead one to be reflexive to the degree that one comes to know of the impossibility to imagine even sufficiently appropriately lives of as intimate others as one's children. 
Then, the argument of Archer and/or the episode from the Sopranos that the author refers to rather explicate the consequences of the intensification of social change as exacerbation of the conventional (modernist/positivist) assumption that we can understand anything objectively, regardless of material artifacts or human beings. Because modernists assume that they can orientate themselves to particular others' lives without regard to the intricacy inherent in assuming others' whereabouts, they tend to believe that they are sufficiently reflexive only if they refrain from prescribing certain normative guidance, which they believe builds upon their own experiences, and instead, give such others 'if-I-were-you' statements. The flaw of modernist/positivist conception about self-other relationship resides in these shallow assumptions that one can, even if only imaginatively, take others' roles/positions; ideas/opinions established by putting one in others' shoes can exempt one from prescription of self-serving and/or anecdotal normative guidance; and 'if-I-were-you' statements, typically if they are supportive of particular others, can demonstrate one's compassion towards such others as a means to exempt one from bearing responsibility for such others' whereabouts and future basing such exemption on their admittance of utter differences between one's own and such others' experiences. 
This appears trivial and too critical, but is actually significant for construction and management of social reality. First, mere admittance of differences in experiences between different actors never exempts anyone from bearing responsibility for her/his own sense of moral/evaluative appropriateness. That each actor has uniquely her/his own experiences is a presumption. Second, even if each of us is an independent individual, none of us is capable of  going about everyday life without entrusting others to speak for one's being. Hence, rendering others support in tangible forms can never exhaust further possible support. On the contrary, believing that tangible support is  an exclusive means to render support to others is irresponsible or unethical in the sense that such a belief is actually meant exclusively for concluding contracts that falsely draw boundaries of moral responsibilities, often by the more powerful's taking advantage of power imbalances. Third, unless conceptualizing self and others to be never conclusively separable, actors are fated to continue to be unaware that the only means to be ethical is to read others' moral sentiments, which can rarely be observed directly; thus, they continue to be complacent about their own assumptions about reality without regard to negative effects of their actions and/or words on the more vulnerable /less powerful. Regardless of being self-serving or empathetic, taking actions, including expressing words/voices, are felicitous events. Besides, no observable action can be made without excluding other possible reality. In other words, it is both theoretically and practically impossible for anybody to be exempted from bearing moral responsibility for such inevitable negative impacts on others. The only means to compensate for this inescapable moral dilemma is to act in ways that enhance others' taking actions. 
Such is, however, not possible merely by offering guidance or supportive comments. Rather, actors ought to attempt to encourage others to tell their own stories in their own ways. To do so, first and foremost, one needs to contemplate one's own moral sentiments; then, proceed to proposing ways of mimicking one's ways by which to come about one's moral sentiments. By so doing, others are expected to imagine their own moral sentiments by reference to actions/words presented to them. We need to renew our understandings about mundane interactions with other actors in ways that put what is not observable on the center of interactions. Ideally, we communicate with each other's moral sentiments by means of plot, which consists of five constitutive elements: acts, actors, scenes, purposes and agencies, and which operates along the triadic logic of imagination, apprehension and consensual validation.

  

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Friday, February 27, 2015

Monday, February 9, 2015

Nuclear power station is

http://www.twitlonger.com/show/n_1scc1gu


'Ultimately the ethical/ political question of the nuclear power station is not only "is it safe?" but also "is this the sort of humans that we want to become?" (Introna, 2013: 267)

Even those who try to understand rationally and scientifically the problems over Fukushima had better ponder about what the quotation above means.
Each of us inevitably holds particular values, moral and evaluative preferences toward a variety of things surrounding her/him.
Since neither rationality nor scientific approach can be treated as a kind of universal law to which any of us has to subscribe, these never validate one's ethical correctness.
Ethical correctness is always determined socially.
Considering the multiplicity of variance in people and contexts in which they are situated, even serious pursuit of rational decision excluding political interests, emotions, sentiments or feelings should not assert its correctness towards other people. Rather, one has to keep on pursuing better ways to converse with each other.
Turning down seemingly irrational sentiments is actually serious violation of ethical practices.

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Tuesday, December 16, 2014

哲学って人の役に立たなくても平気なものなのかな??

http://heideggerforum.main.jp/ej2data/phro.pdf

「理論知」と「実践知」

このシンプルな対置や、他方による一方の復権などではない

アリストテレスから始まって、ハイデガーを経て、実践哲学復権の運動という知的活動の意義も、そもそもの動機も、「理論」「実践」いずれか一方では不足する部分を、いかに補えるか?という問題だろう。
(もしも「え?どっちか一方じゃだめなの?ほんじゃ両方ってことでええんちゃう??」で済むようなことなら、何も過去の偉人達のテクストの解釈について喧々諤々する必要などなかろう。)
なので哲学者たちの知的活動の意味については「ある」と言える。

のだが、、、。

こう。。なんての???

対概念を置いて、どっちがどっちとか?その融合はいかに理路整然と行えるか??ってのは、、、

それこそ強引がっちゃんこ(分離?)のデカルトとか、あまりに整然としたヘーゲルとかがあって、、

やっぱ1+1=2みたいなのは無理そうってことは分かっているわけでさ、、、

対概念の概念をめちゃめちゃ読み込んで解釈し直してね、、何を目指しているのか???ってことなんよね。。。

なんかさ。。「俺の解釈こそ正しい」みたいな匂いがプンプンするんだけど。。。
(それで専門「解釈学」っちゅうのがちょっと可笑しくなってしまうんだけど。。。)

あのさ。。

「正しい解釈」なんて無理なんだよね。。。

もしも「正しさ」を追求しようと思うのなら、「何のために」という目的の設定にかかっているんですよね??

何故「解釈学」を勉強していて、「正しい解釈」にこだわるのか??
この矛盾は深刻で、それをこそ哲学するべきなのでは??

頭のいいといわれている人も、日本人は、自己を奥行き深く検証できない。
頭のいいといわれている人は、一生懸命、「Categorical」な知識に戦いを挑み、克服することが、「知」の全てであるかのようにみなしているのではないか?

本論文のようなものが書けるということは、問題設定を、著者なりに行っている。
(著者が書きたいことは何か?が明確にある、ということ)
それ自体も実はめっちゃ難しいこと。
なんだが。。。

必要以上に難しくしている感じがする。
何故なら、「Categorical」な知識というのは、基本的に既知なわけで、それに含まれる細々とした要素は、変更は不可。
要するに憶えるなり、なんなり、正確に写し取ることが肝要。
とはいえ概念化して複雑化すれば、そこには「解釈の余地」が生ずる。
よって、この論文が主にやっていることは、「ぼく。これとこれとこれをこのように解釈しまっす!」てことなわけ。
で。問題設定の難しさのお話なんだけど。
「Categorical」ってのはいくら「解釈の余地あり」とはいえ、基本変更は不可なわけで、その中から「解釈可能な部分」を見つけ出すってのは、えれー手間暇かかるのよ。ましてや、ハイデガーにアリストテレスでしょ??「Categorical」の枠内に留まるなら、独創的な解釈が許されるポイントなんて探し出すのは相当難しいわけ。だって延々偉人たちが解釈しているわけだから。
そんな手間暇かけて、いくら正確に解釈しようが、産み出されるものはものすんごいマージナルなのよね。。。
それが全く無駄だとは言わない。
どちらかというとそれは基本のキ、と思う。
但し。
人間に与えられた限られた資源を考えるなら、既知の「Categorical」については、大間違いをしないで理解した上で、それらの知識をリソースとして、現に今生きている人・世界のために、より有益な「知」を生み出す、という方がより重視されるべきだろう。

例えば現在の日本の政治家の問題なのだが。。
それってわざわざハイデガーとかいう難しいテクストを持ち出してまで語る必要のあるものなのだろうか??
もしも必要であったとして、「だからハイデガーを読め!」ではないと思うのよね。
示唆多いなら、それ、教えてあげればええことでしょ?
それができないってことは、要するに、問題の政治家たちを救えない、ってことなのよね。
勿論知っている人たちは問題のある政治家とは異なる次元にいると思う。善悪の。
でもね。
知ってて救えないって方がある意味悪いって考えもできるのよね。。
どう思いますか??

そうなんです。
あなたもわたしも日本人なんです。
めっちゃ注意して問わなければならないのです。
「あれ??私って今何してるのかな??」って。
へへん!そんなナイーヴな問い、全く私には関係ない。
ってのがね。。。これ実は日本人であるからこそ陥りやすい罠なのよ。
だって普段から「私」とはなんだろう?なんて問わないじゃない。。

「Categorical」な知識の理解には正確性が求められる。
ましてや文字文化が発展しきっている現代、知識の量は膨大で、概念も複雑化している。
でね。
ほーら。私。こんな沢山のことこんなに正確に理解しているんですよ~♪って自慢したくなる気持ちはわからないでもない。
けど。
そんだけエライんなら、やんなきゃなんないことはいっぱいある。
いかにPracticeに落とし込めるか?
なんで人々は理論とはことなる振る舞いをするのか??はたまた理論ってものがそもそも立て方間違ってんじゃないか??とかね。。
もちっとバランスとった方がいいよね。。。

知識は「理論」と「実践」の二分法ではカバーできない。

カントなら、Sense, Appereception, Imagination
Peirceとかね。

私が推すのは、自己、人、モノ。

モノ、コンテキスト、メディエーターかな。。。

本論文の著者は、もっともっと、著者自身について問うた方がいい。
その正確な解釈(モノ)を、どんな場面(の住む世界)で、誰(自分も含めた生きる主体)のために活用したいのか?すべきなのか??

いや多分。この人やこの人が属しているコミュニティでは、これでいいのだ。
その立派なモノを、人の世で、現に今生きている人々に有用なように、活用するにはどうするべきか?は、私が考えるのだ!(できれば適当なコミュニティとともに。。。)
但し、この論文の著者やそのコミュニティが、間違って、一般庶民をディスるようなことをするなら、それは「違いますね」と言ってあげればいいこと。なんだよね。。。


保守的な「普通の人」と政治について話して気づかされるのは、彼ら彼女らが自分や自分の身の回りの人びとのことを自分なりに大事に思っていて、その結果として投票をしているのだという当たり前のこと。そこにリベラルな考え方を伝えるにはもっと魅力的な価値を発信しないといけない。誰もできてない。(「普通に身の回りの人々のことを自分なりに大事に思う、そして行動する」ということはそれ自体価値のあること。だとすると、その「価値」について「気づいてもらい」、「さらに心から価値あるもの」と得心してもらうことが大切。ということなのかな??その「気づき」を与えるとき、単に「素晴らしいことです」ではなく、「何故?どのように?」という説明が、「価値」を高めるのかな??「気づき」にはどうしても社会的な価値観が付加されるとか??例えば「現時点でも自然(意識せず)他者との利害の調整などが行われている。では、もしも現在気づかずに実践している、調整の範囲を、意識して、若干広めてみた場合どういう利点があるでしょうか?それが無限拡大しないことは明らかだけど、ではどこまでなら自力で広められるか?もしくは他者からのどういった協力が必要となるか?」などなど。。。

研究者にも、本当は自分の身の回りの人を大事にしたいだけなのに、あたかも社会正義や普遍的真理を語っているつもりになっている人たちがいる。そういうことをやっているうちは、「保守的なふつうの人」たちも「やっぱり身内のための政治を」となるよね。
学者であると同時に、この社会を構成し、権利を有している政治的主体である(こと)こと。それをすっ飛ばして「観察」に回ってしまうこと、自分と切り離して社会的な事象を語ってしまうこと。たまに見られる問題です。(「たまに」ではない。と考えてみることこそが、日本人には大事なのではないか見逃されやすい点:「観察」は知能の働きが高い人ほど上手。特に「観察」結果をアウトプットできる。という点において。何故なら、「見る」だけなら誰にでもできるし、ということは似たように見えるものも、いろんな人がいれば、多少なりとも異なるように見えるのは当たり前で、じゃあ何が違いを生む??って考えると、そりゃ「どう違うか?」を「別に違わない」と感じている多数派に対して説明できるかどうか?じゃない??という意味で「知能の働きが優れている」人が「観察」上手ということ。であるからして、「観察を上手にできるための知能の働き」=「人間の持つ知的能力の全て」なんてことではない。 また、「観察」というのは、とある問題を外から眺める、ということから、「自分」をその中に含めようとしない傾向が強くなるし、そういった傾向に気づきにくいもの。勿論「観察」を間違いのない方法で、事実を正確に読み取って、誇大妄想にならないちゃんとした解釈を加えて発信する、ということは大切。しかし、普段から「私」というものの正体とか、実体世界に及ぼしている影響とはどんなものか?を理論立てて問う習慣がない日本人は、「観察」が立派にできるということと、「正しい」私、というものを混同してしまいがち。そこには「私」は存在しないものを「観察」しているわけだから、その「観察」という行為の正しさは、単に手順や方法の適切さだけでは証明されない。どのような関心を持って、誰のためにそれをやっているのか?常に考えるべきなのだろうと思う。

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Friday, December 12, 2014

ユダヤ問題

何故よりシンプルな分析がなされないのだろう?

「迫害」の歴史はナチス・ドイツに始まったわけではない。

ではなぜわざわざ「名指しで」迫害される、ということが散発的とはいえ続くのか?

私の考えでは、「ユダヤ人」と称される人々が結束して何かをなしている、なそうとしているから、というのは全くの空想(「陰謀論」に象徴されるとおり)で、問題の根源は、とある一部の「ユダヤ人」として知られる人々が、常に権力者と関わり合いを深く持ち続けているというのが根源的な問題だろうと思う。

「ユダヤ人」と称される人々にまつわる、一つの特徴として、金融業に関わってきていることが挙げられるが、これは何も「ユダヤ人」と呼ばれる人全員が金融業しかしていない、というものではない。
つまり、一部の金融業者が、シンプルに、サバイバルの一環として、「どのようにすれば自らの金融業が持続可能か?また、望ましくは拡大発展可能か?」を検討してきた。その一つの解が、「時の権力者による貨幣に対する信用の保証」であった。
現在の主権国家を単位とする国際社会の構造が確立することと、金融業者の関わりというのは密接で、ラフな視点でまとめれば、共存共栄を図ってきた、ということ。権力者、金融業者の双方が、より安定的なしくみを模索してこうなったのだろう。

問題は、現在の主権国家単位の体制が確立する以前には、紆余曲折があったということだ。
つまり、比較的安定した主権国家が固定される以前には、各地域において権力者同士の闘争が継続していたということだ。
よって、自らの金融業の持続安定的な発展を模索するに当たって、権力者による貨幣への信用保証が枢要である、との方針では、権力闘争に巻き込まれやすいということは自明であろう。

勿論ユダヤ教を背景とする、見た目の違い(風習、慣習も含む)、考え方の違いなども影響しているだろう。
歴史的に「放浪の民」であったことも関係があろう。
より深刻であろうと思われることに、権力闘争に巻き込まれやすい一部の者が扱うものが「お金」であった、ということもある。
何故か?
「お金」は普通の人も使うようになってきたから。つまり、普通の人が「富」の形として、「お金」を認めるようになっていった、ということ。
このような状況で、「どうやらお金はユダヤ人が握ってるらしいぞ」という噂が流れれば、「ユダヤ人」というものに対し、否定的な感情が湧き起りやすくなることは想像に難くない。
ましてや、巷で一風変わったグループと見なされるなら、「ユダヤ人」なるグループが、束になって何かグループの利益最優先で行動しているのではないか(「お金」という「富」の独占など)?と妄想し始めるだろうことも容易に想像されよう。

ユダヤによる金融支配、というものも、どれほど「支配」しているのか?は分からない。(多分全てを握っているということはない)
但し、一般庶民では想像もできないぐらいの額を、日々の生業として動かし続けている「ユダヤ人」が存在することも否定できないだろう。

おそらく、金融グループのトップ達やイスラエルの権力中枢にいる人たちの感覚では、「世界支配」なんて「全くの妄想」という程度なのだと思う。
でなければ、彼らが行動、言動を少し修正するだけで「ユダヤ人」と称される人々全体に対するリスクなど随分軽減されるはずなのに、全くそのような動きを見せていない理由が分からない。
どちらかというと、主権国家としてのイスラエルは特段巨大帝国を築けるような存在でもなければ、敵対国に囲まれていて、とっても危うい存在。
金融業の立場としても、日々の生業なのだから、これが途絶えれば、ただの流民になってしまう、脅かされた存在、ぐらいの認識なのだろう。

「ユダヤ問題」というのは、権力者や、持てる者たちの思考パターンに根本的な転換が見られなければ、引き続き繰り返されるだろう。

これは決して民族問題ではない。経済問題に見えて経済分析のみではどうにもならない。国際政治の問題か?主権国家の中枢にいる人々に絞れば、彼らには「国際政治の問題」として取り組んでもらわねばならないだろうが、民をどう治めるか?ということなのだから、エライ人たちだけで頭を捻っても答えなど出まい。しいて名称を付すなら「人類問題」だ。

(1)「お金」を生存に不可欠な「富」と認識するとして、どの程度が理想的なのか?
(2)「富」の公正な分配というものはどういう姿で、どのように実現可能であろうか?

(1)「お金が人生の全てではない」ことは皆知っている。けど、では具体的に何をどう追求すればよい?「お金」でないとしても、サバイバルに必要な「富」というものはあって、これを追求しない、ということはあり得ないだろう。程度の問題なのだ。「がつがつ」はダメだけど、全員が「ああ。生きていける分だけもらえるんならそれでええよ。」なんて言うわけもない。そもそも人によって「生きていける分」が違うし、多分変わるし。

人生をどういうスパンで見て、どのように運べれば(運べるだろうと予測できれば)より不安が少なくなるだろう?


(2)現時点で稼働しているシステム(「富」の分配に関わるもの、国家や官僚組織や企業、税制、社会保障制度などなど)について、私たちはどのように理解すべきか?勿論ついている職責によって異なるだろうが、私が興味あるのは、システムの運営に直接関わらない(関わってはいないであろうと認識している)、大多数の人々にとっての理想的な態度、関わり方とは??という問題。(「何か」を敵視?問題視?することは避けられないだろうし、種々検討を継続していくモチヴェーションとしては、敵視や問題視は必要ともいえる。勉強しなければならないのは間違いないが、一体「何を」「どのようにして」勉強すべきだろうか?などなど)



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「場」(平面的な世界観・人間観)、「私」に根差した「方法」の重要性

Twishort / hamaokahlisboa: https://twitter.com/smasuda/stat…

hamaokahlisboa: https://twitter.com/smasuda/stat…

https://twitter.com/smasuda/status/542316157600923648 「特権意識」もそのとおりだと思うけど、これとおそらく表裏一体を成すかたちで、「過大な義務感の拡大」のようなものも見られる気がする。
どういうことかというと、「とある分野での先生」なんだけど、「先生」って呼ばれるからには、、、という感じで、全く素人な分野においても、「えらくあろう」とする感じ。
表裏一体と思うのは、面的拡大のイメージが共通していると感じるので。
言い換えるならば、「なぜ、どういうときにあなたは先生でいられるか?先生でいるべきか?」ということよりも、「先生であるからには、、、」と自分の置かれているに注意が向く。自身の専門分野と、全く無関係な分野とが、容易に面的に接続されるのだ。
何故より自らが置かれている場に注意が向くのかというと、突き詰めるならば、「私は何者?」というコンセプトがほぼなく、「唯一無二の個体としての私」とか「そういう私というのは一体何によって形成されているのか?職業のタイトル?いややはり何ができるか?という実能力?その他の性質?人生経験?エトセトラエトセトラ」というような問いにまで落とし込んでの「私」認識の方法が伝統的に存在しないからなのではないか?
「方法」というのがポイントで、要するに、日本的方法には、「他者と(想像的に観念するのではなく)実際に相対する場」における振る舞い方、というものしか存在しないのではないか?
そのために、振り返るとバカバカしくなるぐらいの、面的な拡大解釈によってその都度その都度の行動が決められてしまっている。
現に使用可能な「方法」を選択しているのだから、全く「悪意」はないはず。
西洋の文化や考え方にも触れるので、色々とボキャブラリーは増えるのだが、結局、その運用方法は「実際に接するであろう他者と私との関係」においてどのように運用するか?に限られてしまうので、例えば、自分の考え、発言、行動について、そもそもその素材が何故今の自分に動員することができるのか?というような問いかけはほぼなされない。あくまでも、自他ともに、互いの目に見えるもの(言葉や行動)から、その素材一つ一つが、その見える姿かたちを通して、比較的齟齬のない意味を発信する、かのような解釈。極端な表現をすると、「お前が相手やからこのように言っている」という方に重点があり、「私が最も伝えたいことはこれこれです」という風な認識が薄い。これはどっちがどっちというものではなく、本来常に悩まされ続ける問題。であるにもかかわらず、日本的方法(「場」重視、実際の相手方対自分(「空想の中の可能性のある自他関係」或は「どこかで仕入れた過去の情報にある自他関係」などはそれほど分析しない))では、実際に接する相手に対し、相応しい選択をしているか否か?を極端に重視するため、「一体私は何を伝えたいのか?」「その伝えたがっている私というのは何故そのように感じ考えるのか?」というところまで掘り下げた、自己の発言、行動に対する責任感が発生しない。
多分、だから多くの日本人(知識人を含む)は、西洋起源の哲学や、キリスト教的な考え方について、その真髄(なんで人々は何千年もこのようなことを考え続けているのか?その理由)が解っていないのだと思う。
つまり、もしも日本的方法になくて、西洋起源の哲学や宗教にある、というものに真摯に向き合っているのなら、西洋の学問知識(特に人文系。人って何?という問いかけ)を、彼らが何千年も繰り返している次元の自己に対する問いを行っていない人々(日本人)には、どのようにして伝えるべきか?伝えることによってどのような利点があるか?ということは考慮されていたはずなのだ。
それがないために、いくら正確に西洋の哲学などを理解したとしても、その問いかけの起源も、運用方法も存在しない日本においては、ほぼ何の役にも立っていないのではないか?
やはり、知識というものは、正確に理解できているか否か?だけではなく、どのように運用されるか?によってその価値が大きく膨らんだり萎んだりしてしまうものだと思う。
知識を活用するためには、日々人々がどのように生きているのか?感じ方考え方の「方法」も知らなければならないのではないか?
そういった「方法」の中でも、私は特に「私というつかみどころのないものといかに向き合うか?」についての「方法」について重点的に(しつこく?)みていきたいと思う。

3 days ago via Twishort

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Thursday, December 11, 2014

言葉と実生活と私(論理、道徳、責任感など)

ともかく言葉というものがなぜか「どうでもいい」と暗に認識されているような気がして仕方がない。
この「どうでもいい」感の根源の内、いくつかは思い当たる。

(1)言葉なんて通じりゃいいんでしょ?通じてるってことは論理的にも整合してるんじゃないの??ってぐらいに論理整合性なんて「どうでもいい」
(2)採用した単語、それらからなる文・文章が、現実のモノ・現象・心的事象などを正確に表現できているかどうか?なんて「どうでもいい」
(3)言葉が何を指し示そうとしているのか?について、正確を期すことが、自分たちの暮らす実生活にどんな影響を及ぼすか?については考えたこともないので「どうでもいい」
(4)特に「過去の発言」と「現在の発言」との間の論理整合性なんてはっきりいって確保できるわけがないんだから、「あの時はああいってたよね?」なんて全く「どうでもいい」
(5)身近に同様の人がいなかったり、いてもすぐそばにいないとかで耳に入りそうもないという状況だったら、「何言ったって構わない」ってぐらい、「他人の感情を動揺させるような過激な表現の後、動揺させたことによるばつの悪さ」みたいなものを感じている形跡がない。つまり、言った言葉が自分自身でどのように経験されその経験を通して自分自身がどのようにじわじわと形成されていくか?なんてことは「どうでもいい」
(6)上記(1)から(5)に通底しているものは、「私自身が現に感受した感覚」が例え言葉でなるべく正確に表現できなかったからといって、「私」が暮らす実生活には何の影響もないだろうつまりは、「私」という人間が感受している感覚のその大元となるものは、「私」の暮らす実生活と同じ空間に存在し、そこから発せられている、という認識がないため、「私自身が現に感受している感覚」なんて「どうでもいい」
(7)故に、「私」にどんな機能が備わっているのか?「私」という人間は実生活において何をどうなすべきなのか?という次元での「道徳観」や「責任感」がその言葉から滲み出ることはないし、つまりは、「私」という人間なんて言葉と同じぐらい「どうでもいい」

いやとにかく、、、言葉に対する真摯さがないのよね。。。(「所詮、、、」って感じ)


山本七平氏の分析に対する考察


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Wednesday, October 8, 2014

Poor imagination →ニッポン賛歌♪

I suspect that my compatriots are poor in imaginative capacities. They just do not know how to imagine.
Imagination actually requires both aesthetic intuitive insights and logical scientific analytical capabilities.
My compatriots are culturally good at imagining how others are likely to see them. This is one of important qualities to go through everyday life establishing reasonably predictable ways of thinking and acting. Since it is not possible for anyone to be sure completely of what will happen in the future, we need to have relatively reliable ways of acting. Otherwise, we should more often than not be faced with problems, such as unintended conflicts with others and anxieties caused by uncertainty about what to do, when, where, how and to and with whom.
On the other hand, they are poor at making logical scientific analyses on a variety of encounters.
This is just a matter of preferences and concerns.
Because they value highly how to read others' interests and concerns, what is more important is how they behave than what to do on what grounds.
Why is it so?
Such should necessarily happen when people are interested too much in responses from others.
Imagine how we assume others' possible conducts in response to our actions.
Assuming about others' responses does not necessarily require precise understandings of what to present to others.
What is important is rather ways of expressing than logical coherence of what to be presented.
Why?
Let's think this way.

You just wish to walk through a street along which a relatively large group of people who look like savages is dully wandering. For the sake of your safety, what is important is not what your occupation is, what competencies you have, for what purposes you need to walk through the street, and how justifiable reasons you have to do so, but how safely you can pass through the street.
Unless you get too nervous to think properly, you would not think of first and foremost showing off your justifiable reasons walking there, or how vigorous you look hoping that none of the savages feels like offending you. The most reasonable judgment will be not to catch attention of them. Then, you are most like to be concerned with how you may appear to them while passing through the street, rather than your identities, moral reasons or rationally justifiable purposes.
In short, assumptions about particular ways of behaving and others' responses to them have almost nothing to do with how precisely you can communicate what you are feeling, what you believe to be right, or who you are.

On the other hand, you sometimes need to communicate as precisely as possible how you feel, what you are thinking about a certain topic, or for what reasons you are doing or did something.
Of course, it depends on situations. It depends on with whom you are or against whom your actions are directed. Nonetheless, there is no definitively correct strategy going through everyday encounters.

It is said that conspiracy theory sometimes correctly describes reality. But, if people get too much affected by conspiracy theory, society will become more and more hard to be lived through. This is because conspiracy theory induces doubt about value of sincerity or honesty. Insofar as there are groups of people who try to manipulate things for the sake of their respective groups, being honest seems to be the least profitable strategy. People always wait for others' taking certain actions and try to manipulate them for their own sake rather than present their sincere wishes which are likely to be manipulated by others. Alas! Then, people will come to act out trying to project false images toward others. In consequence, they will become unable to trust effects of communicating as precisely as possible their intentions, interests, values or simple objective material facts that can potentially command fatal material consequences. 
Being doubtful is not something that can be avoided only by disciplinary creeds. However, by being doubtful, people are fated to lose precious opportunities to run their society in a constructive and productive manner. Rather than being faithful to one's belief, people choose to wait for somebody's mistakes or misbehavior. 
We need actually to be serious about the effects of telling lies. As a Japanese proverb says, telling lies is sometimes necessary with appropriate rhetoric thus depending on contexts. It is actually contextually viable. Hence, if people misunderstand contexts, lies do more harm than good. The most serious negative effect is that lying to one's own sincere wishes shall seriously damage relatively predictable ways of acting which are critical to just go through everyday life. Consider the fact that no one can live without taking any action. Regardless of whether one wishes to act or not, s/he is mobile as far as s/he is alive. It is almost impossible to remain still forever until s/he dies. Acting without thinking is a critical and necessary condition on which human beings who have innately inherent predispositions of feeling and thinking live through their lives minimizing possibilities of serious disruptions.
We need to get back and appreciate the value of being honest and faithful to our own real concerns.


腐っても腐らなくてもニッポン♪

しかし腐りきっとるな。。。

それでもニッポン!

とことんがんばらないくにニッポン!

お遊びでいいのよ人生なんて。ニッポン!

だって所詮人生たったの80年でしょ?ニッポン♪

それが何世代続いたところで一人が生きてられるのは80年そこそこ。ニッポン!

真面目に生きる??何ですか~?ニッポン

真面目に生きたって生きなくたって何も変わらんでしょ?ニッポン!

幼稚な正義のくにニッポン。

間違ったやつは周り確認のうえ「ふむふむ。ね。やっぱこいつだめでしょ。」ってわかったら徹底的にたたくニッポン!

何がダメで、何がよくて、何が許せて、何が許されないか、いちいちケースバイケースで考えるのは無駄なくにニッポン!

ケースバイケースでいちいち考えとかないとある日突然自分が袋叩きに遭うかもしれないのに、「絶対そんなへまするわけない」って豪語するひとだらけのくにニッポン!

内面なんてどうせわかんないんだし、外面あわせてりゃいいのよニッポン!

外面あわせるのだってけっこ大変なんだし~ニッポン!

あー幼稚くせー

酸素吸って二酸化炭素排出して、エネルギー消費して、ごみ捨てて、うんこして、、

むっちゃ無駄なんですけど。。。止めてもらえます??生きるのがそんなにおもんないんやったら。。。

論理が。。。
論理になってないくにニッポン↓

なんでそんなすぐ感情的になる必要があるのかな??ニッポン。。情緒のくにだから??いやぁ~ちがうと思うけどな~。。

なんかさ。情緒の文化は維持しつつ、科学的思考のダメなところを気づかないで、でも科学的イメージの方が便利、強そう、なんか文句言われなさそう、、みたいな雰囲気だけで、かなり堂々と乱用している感じ。。ニッポン。。

科学的思考のダメなところ??
両面共存は原則表現できないというところさ。

それを克服するにはとりあえず二つのことを別々に表現するしかないんだけど、それをすると、複数視点を表現した、という事実にこれまた「正しさ」が乗っかってしまうので、余計に、「なんでその二つがどのように大事だと思いますか?」って問いから離れてしまうのよね。。。要するに言いっぱなしが許されるのが科学的思考なの。だってきちんとした手続きで立証するわけだからね。「ほれ。証拠はこれよ。なんなら調べてちょ♪」って言っていいの。分かるかな~??

結果。。どんどんどんどん無責任体質が強化されるのよ。。。

相対性理論ってあるでしょ?

これ比喩的に日々の生活、行動様式、思考過程とかにも使えるんだけど。。。
どうやって使えると思います??

責任の取り方。

いろんな価値が併存するってことじゃないのよね。。念のため。

いろんなものが併存するというのが事実としても、今現に通過中の現実があなたの現実。
ほかの人にももちろんその人が通過中の現実はある。
でもそれを知ったからといって、今現にあなたが通過中の現実からは逃れることはできないの。
要するに受け入れねばならないのよ。
ほかの人はあんなに楽してるやん~。ほぼおんなじように生きてきてるはず。いや自分のほうがもっといろいろ工夫したり我慢したり、他人思いに生きているのに~。。
って言ってみても何も変わらないのよ。

相対性理論って科学の世界の内輪だけでも相当貢献しているけど、実は人々の生き方にどう活かすか?という視点でもかなり有力な理論なんだよ~。

科学の世界でね、宇宙は一つではない、とか、無数の可能性があって、実現したものというか、測定してみてそこにあることが確認されたとしても、それ以外の存在の仕方をしている宇宙が別にあるとかね。。

それが物理や数学で証明されたってことはさ、科学者だって薄々「げげげ。言いっぱなしはできないんだ。。。」と気づくわけさ。人間である以上はね。

ある意味神様がやっとこ戻ってくる道筋が示されたってところかな?

神様が戻ってくる道筋って?

言いっぱなしなんてのは神様にしかゆるされない特権。究極の想像上の(人間にとっては)架空事実なのよ。(でもたぶん世界はただそこにあるがままにある、という状態で存在していると思う。あくまでも人間の意思、思惟ではそれは架空のイメージでしかない、ということで、それが現実にはない、ということではありません。)

人間はその思惟でもって、「たのんます。これほんま大事なんで、、、。神様このようなイメージの世界。なるべく多くのひとの現実となるようにお導きくださいませ。」ってね。お祈りするわけ。人事は尽くすのよ。だから。必ず。祈ったよ。ほい。で??なぁんや。。全然ちゃうやん。現実。。なんて文句いっても、そんなの聞いてくれるもんじゃないからね。。神様って。。もっともっと崇高で人間には手の届かない神聖なものなのよ♪
だから神様なんだけどね♪

さあて。
よって。
人事なんて面白おかしく尽くさなきゃやってらんないわけ。だってどうなるかわかんないんだもの。どんなに緻密に真面目に計算したり工夫しようとしたりしてみたって。
それはふざけているとかあきらめているのではないのよ。
祈り。
断じて祈りなの。
世界平和を祈ってみんなを笑かすのだ。
そのほうが楽しいと思うんだけどな~。。。
だめかね???


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