ともかく言葉というものがなぜか「どうでもいい」と暗に認識されているような気がして仕方がない。
この「どうでもいい」感の根源の内、いくつかは思い当たる。
(1)言葉なんて通じりゃいいんでしょ?通じてるってことは論理的にも整合してるんじゃないの??ってぐらいに論理整合性なんて「どうでもいい」
(2)採用した単語、それらからなる文・文章が、現実のモノ・現象・心的事象などを正確に表現できているかどうか?なんて「どうでもいい」
(3)言葉が何を指し示そうとしているのか?について、正確を期すことが、自分たちの暮らす実生活にどんな影響を及ぼすか?については考えたこともないので「どうでもいい」
(4)特に「過去の発言」と「現在の発言」との間の論理整合性なんてはっきりいって確保できるわけがないんだから、「あの時はああいってたよね?」なんて全く「どうでもいい」
(5)身近に同様の人がいなかったり、いてもすぐそばにいないとかで耳に入りそうもないという状況だったら、「何言ったって構わない」ってぐらい、「他人の感情を動揺させるような過激な表現の後、動揺させたことによるばつの悪さ」みたいなものを感じている形跡がない。つまり、言った言葉が自分自身でどのように経験され、その経験を通して自分自身がどのようにじわじわと形成されていくか?なんてことは「どうでもいい」
(6)上記(1)から(5)に通底しているものは、「私自身が現に感受した感覚」が例え言葉でなるべく正確に表現できなかったからといって、「私」が暮らす実生活には何の影響もないだろう。つまりは、「私」という人間が感受している感覚のその大元となるものは、「私」の暮らす実生活と同じ空間に存在し、そこから発せられている、という認識がないため、「私自身が現に感受している感覚」なんて「どうでもいい」
(7)故に、「私」にどんな機能が備わっているのか?「私」という人間は実生活において何をどうなすべきなのか?という次元での「道徳観」や「責任感」がその言葉から滲み出ることはないし、つまりは、「私」という人間なんて言葉と同じぐらい「どうでもいい」
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