Tuesday, December 16, 2014

哲学って人の役に立たなくても平気なものなのかな??

http://heideggerforum.main.jp/ej2data/phro.pdf

「理論知」と「実践知」

このシンプルな対置や、他方による一方の復権などではない

アリストテレスから始まって、ハイデガーを経て、実践哲学復権の運動という知的活動の意義も、そもそもの動機も、「理論」「実践」いずれか一方では不足する部分を、いかに補えるか?という問題だろう。
(もしも「え?どっちか一方じゃだめなの?ほんじゃ両方ってことでええんちゃう??」で済むようなことなら、何も過去の偉人達のテクストの解釈について喧々諤々する必要などなかろう。)
なので哲学者たちの知的活動の意味については「ある」と言える。

のだが、、、。

こう。。なんての???

対概念を置いて、どっちがどっちとか?その融合はいかに理路整然と行えるか??ってのは、、、

それこそ強引がっちゃんこ(分離?)のデカルトとか、あまりに整然としたヘーゲルとかがあって、、

やっぱ1+1=2みたいなのは無理そうってことは分かっているわけでさ、、、

対概念の概念をめちゃめちゃ読み込んで解釈し直してね、、何を目指しているのか???ってことなんよね。。。

なんかさ。。「俺の解釈こそ正しい」みたいな匂いがプンプンするんだけど。。。
(それで専門「解釈学」っちゅうのがちょっと可笑しくなってしまうんだけど。。。)

あのさ。。

「正しい解釈」なんて無理なんだよね。。。

もしも「正しさ」を追求しようと思うのなら、「何のために」という目的の設定にかかっているんですよね??

何故「解釈学」を勉強していて、「正しい解釈」にこだわるのか??
この矛盾は深刻で、それをこそ哲学するべきなのでは??

頭のいいといわれている人も、日本人は、自己を奥行き深く検証できない。
頭のいいといわれている人は、一生懸命、「Categorical」な知識に戦いを挑み、克服することが、「知」の全てであるかのようにみなしているのではないか?

本論文のようなものが書けるということは、問題設定を、著者なりに行っている。
(著者が書きたいことは何か?が明確にある、ということ)
それ自体も実はめっちゃ難しいこと。
なんだが。。。

必要以上に難しくしている感じがする。
何故なら、「Categorical」な知識というのは、基本的に既知なわけで、それに含まれる細々とした要素は、変更は不可。
要するに憶えるなり、なんなり、正確に写し取ることが肝要。
とはいえ概念化して複雑化すれば、そこには「解釈の余地」が生ずる。
よって、この論文が主にやっていることは、「ぼく。これとこれとこれをこのように解釈しまっす!」てことなわけ。
で。問題設定の難しさのお話なんだけど。
「Categorical」ってのはいくら「解釈の余地あり」とはいえ、基本変更は不可なわけで、その中から「解釈可能な部分」を見つけ出すってのは、えれー手間暇かかるのよ。ましてや、ハイデガーにアリストテレスでしょ??「Categorical」の枠内に留まるなら、独創的な解釈が許されるポイントなんて探し出すのは相当難しいわけ。だって延々偉人たちが解釈しているわけだから。
そんな手間暇かけて、いくら正確に解釈しようが、産み出されるものはものすんごいマージナルなのよね。。。
それが全く無駄だとは言わない。
どちらかというとそれは基本のキ、と思う。
但し。
人間に与えられた限られた資源を考えるなら、既知の「Categorical」については、大間違いをしないで理解した上で、それらの知識をリソースとして、現に今生きている人・世界のために、より有益な「知」を生み出す、という方がより重視されるべきだろう。

例えば現在の日本の政治家の問題なのだが。。
それってわざわざハイデガーとかいう難しいテクストを持ち出してまで語る必要のあるものなのだろうか??
もしも必要であったとして、「だからハイデガーを読め!」ではないと思うのよね。
示唆多いなら、それ、教えてあげればええことでしょ?
それができないってことは、要するに、問題の政治家たちを救えない、ってことなのよね。
勿論知っている人たちは問題のある政治家とは異なる次元にいると思う。善悪の。
でもね。
知ってて救えないって方がある意味悪いって考えもできるのよね。。
どう思いますか??

そうなんです。
あなたもわたしも日本人なんです。
めっちゃ注意して問わなければならないのです。
「あれ??私って今何してるのかな??」って。
へへん!そんなナイーヴな問い、全く私には関係ない。
ってのがね。。。これ実は日本人であるからこそ陥りやすい罠なのよ。
だって普段から「私」とはなんだろう?なんて問わないじゃない。。

「Categorical」な知識の理解には正確性が求められる。
ましてや文字文化が発展しきっている現代、知識の量は膨大で、概念も複雑化している。
でね。
ほーら。私。こんな沢山のことこんなに正確に理解しているんですよ~♪って自慢したくなる気持ちはわからないでもない。
けど。
そんだけエライんなら、やんなきゃなんないことはいっぱいある。
いかにPracticeに落とし込めるか?
なんで人々は理論とはことなる振る舞いをするのか??はたまた理論ってものがそもそも立て方間違ってんじゃないか??とかね。。
もちっとバランスとった方がいいよね。。。

知識は「理論」と「実践」の二分法ではカバーできない。

カントなら、Sense, Appereception, Imagination
Peirceとかね。

私が推すのは、自己、人、モノ。

モノ、コンテキスト、メディエーターかな。。。

本論文の著者は、もっともっと、著者自身について問うた方がいい。
その正確な解釈(モノ)を、どんな場面(の住む世界)で、誰(自分も含めた生きる主体)のために活用したいのか?すべきなのか??

いや多分。この人やこの人が属しているコミュニティでは、これでいいのだ。
その立派なモノを、人の世で、現に今生きている人々に有用なように、活用するにはどうするべきか?は、私が考えるのだ!(できれば適当なコミュニティとともに。。。)
但し、この論文の著者やそのコミュニティが、間違って、一般庶民をディスるようなことをするなら、それは「違いますね」と言ってあげればいいこと。なんだよね。。。


保守的な「普通の人」と政治について話して気づかされるのは、彼ら彼女らが自分や自分の身の回りの人びとのことを自分なりに大事に思っていて、その結果として投票をしているのだという当たり前のこと。そこにリベラルな考え方を伝えるにはもっと魅力的な価値を発信しないといけない。誰もできてない。(「普通に身の回りの人々のことを自分なりに大事に思う、そして行動する」ということはそれ自体価値のあること。だとすると、その「価値」について「気づいてもらい」、「さらに心から価値あるもの」と得心してもらうことが大切。ということなのかな??その「気づき」を与えるとき、単に「素晴らしいことです」ではなく、「何故?どのように?」という説明が、「価値」を高めるのかな??「気づき」にはどうしても社会的な価値観が付加されるとか??例えば「現時点でも自然(意識せず)他者との利害の調整などが行われている。では、もしも現在気づかずに実践している、調整の範囲を、意識して、若干広めてみた場合どういう利点があるでしょうか?それが無限拡大しないことは明らかだけど、ではどこまでなら自力で広められるか?もしくは他者からのどういった協力が必要となるか?」などなど。。。

研究者にも、本当は自分の身の回りの人を大事にしたいだけなのに、あたかも社会正義や普遍的真理を語っているつもりになっている人たちがいる。そういうことをやっているうちは、「保守的なふつうの人」たちも「やっぱり身内のための政治を」となるよね。
学者であると同時に、この社会を構成し、権利を有している政治的主体である(こと)こと。それをすっ飛ばして「観察」に回ってしまうこと、自分と切り離して社会的な事象を語ってしまうこと。たまに見られる問題です。(「たまに」ではない。と考えてみることこそが、日本人には大事なのではないか見逃されやすい点:「観察」は知能の働きが高い人ほど上手。特に「観察」結果をアウトプットできる。という点において。何故なら、「見る」だけなら誰にでもできるし、ということは似たように見えるものも、いろんな人がいれば、多少なりとも異なるように見えるのは当たり前で、じゃあ何が違いを生む??って考えると、そりゃ「どう違うか?」を「別に違わない」と感じている多数派に対して説明できるかどうか?じゃない??という意味で「知能の働きが優れている」人が「観察」上手ということ。であるからして、「観察を上手にできるための知能の働き」=「人間の持つ知的能力の全て」なんてことではない。 また、「観察」というのは、とある問題を外から眺める、ということから、「自分」をその中に含めようとしない傾向が強くなるし、そういった傾向に気づきにくいもの。勿論「観察」を間違いのない方法で、事実を正確に読み取って、誇大妄想にならないちゃんとした解釈を加えて発信する、ということは大切。しかし、普段から「私」というものの正体とか、実体世界に及ぼしている影響とはどんなものか?を理論立てて問う習慣がない日本人は、「観察」が立派にできるということと、「正しい」私、というものを混同してしまいがち。そこには「私」は存在しないものを「観察」しているわけだから、その「観察」という行為の正しさは、単に手順や方法の適切さだけでは証明されない。どのような関心を持って、誰のためにそれをやっているのか?常に考えるべきなのだろうと思う。

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Friday, December 12, 2014

ユダヤ問題

何故よりシンプルな分析がなされないのだろう?

「迫害」の歴史はナチス・ドイツに始まったわけではない。

ではなぜわざわざ「名指しで」迫害される、ということが散発的とはいえ続くのか?

私の考えでは、「ユダヤ人」と称される人々が結束して何かをなしている、なそうとしているから、というのは全くの空想(「陰謀論」に象徴されるとおり)で、問題の根源は、とある一部の「ユダヤ人」として知られる人々が、常に権力者と関わり合いを深く持ち続けているというのが根源的な問題だろうと思う。

「ユダヤ人」と称される人々にまつわる、一つの特徴として、金融業に関わってきていることが挙げられるが、これは何も「ユダヤ人」と呼ばれる人全員が金融業しかしていない、というものではない。
つまり、一部の金融業者が、シンプルに、サバイバルの一環として、「どのようにすれば自らの金融業が持続可能か?また、望ましくは拡大発展可能か?」を検討してきた。その一つの解が、「時の権力者による貨幣に対する信用の保証」であった。
現在の主権国家を単位とする国際社会の構造が確立することと、金融業者の関わりというのは密接で、ラフな視点でまとめれば、共存共栄を図ってきた、ということ。権力者、金融業者の双方が、より安定的なしくみを模索してこうなったのだろう。

問題は、現在の主権国家単位の体制が確立する以前には、紆余曲折があったということだ。
つまり、比較的安定した主権国家が固定される以前には、各地域において権力者同士の闘争が継続していたということだ。
よって、自らの金融業の持続安定的な発展を模索するに当たって、権力者による貨幣への信用保証が枢要である、との方針では、権力闘争に巻き込まれやすいということは自明であろう。

勿論ユダヤ教を背景とする、見た目の違い(風習、慣習も含む)、考え方の違いなども影響しているだろう。
歴史的に「放浪の民」であったことも関係があろう。
より深刻であろうと思われることに、権力闘争に巻き込まれやすい一部の者が扱うものが「お金」であった、ということもある。
何故か?
「お金」は普通の人も使うようになってきたから。つまり、普通の人が「富」の形として、「お金」を認めるようになっていった、ということ。
このような状況で、「どうやらお金はユダヤ人が握ってるらしいぞ」という噂が流れれば、「ユダヤ人」というものに対し、否定的な感情が湧き起りやすくなることは想像に難くない。
ましてや、巷で一風変わったグループと見なされるなら、「ユダヤ人」なるグループが、束になって何かグループの利益最優先で行動しているのではないか(「お金」という「富」の独占など)?と妄想し始めるだろうことも容易に想像されよう。

ユダヤによる金融支配、というものも、どれほど「支配」しているのか?は分からない。(多分全てを握っているということはない)
但し、一般庶民では想像もできないぐらいの額を、日々の生業として動かし続けている「ユダヤ人」が存在することも否定できないだろう。

おそらく、金融グループのトップ達やイスラエルの権力中枢にいる人たちの感覚では、「世界支配」なんて「全くの妄想」という程度なのだと思う。
でなければ、彼らが行動、言動を少し修正するだけで「ユダヤ人」と称される人々全体に対するリスクなど随分軽減されるはずなのに、全くそのような動きを見せていない理由が分からない。
どちらかというと、主権国家としてのイスラエルは特段巨大帝国を築けるような存在でもなければ、敵対国に囲まれていて、とっても危うい存在。
金融業の立場としても、日々の生業なのだから、これが途絶えれば、ただの流民になってしまう、脅かされた存在、ぐらいの認識なのだろう。

「ユダヤ問題」というのは、権力者や、持てる者たちの思考パターンに根本的な転換が見られなければ、引き続き繰り返されるだろう。

これは決して民族問題ではない。経済問題に見えて経済分析のみではどうにもならない。国際政治の問題か?主権国家の中枢にいる人々に絞れば、彼らには「国際政治の問題」として取り組んでもらわねばならないだろうが、民をどう治めるか?ということなのだから、エライ人たちだけで頭を捻っても答えなど出まい。しいて名称を付すなら「人類問題」だ。

(1)「お金」を生存に不可欠な「富」と認識するとして、どの程度が理想的なのか?
(2)「富」の公正な分配というものはどういう姿で、どのように実現可能であろうか?

(1)「お金が人生の全てではない」ことは皆知っている。けど、では具体的に何をどう追求すればよい?「お金」でないとしても、サバイバルに必要な「富」というものはあって、これを追求しない、ということはあり得ないだろう。程度の問題なのだ。「がつがつ」はダメだけど、全員が「ああ。生きていける分だけもらえるんならそれでええよ。」なんて言うわけもない。そもそも人によって「生きていける分」が違うし、多分変わるし。

人生をどういうスパンで見て、どのように運べれば(運べるだろうと予測できれば)より不安が少なくなるだろう?


(2)現時点で稼働しているシステム(「富」の分配に関わるもの、国家や官僚組織や企業、税制、社会保障制度などなど)について、私たちはどのように理解すべきか?勿論ついている職責によって異なるだろうが、私が興味あるのは、システムの運営に直接関わらない(関わってはいないであろうと認識している)、大多数の人々にとっての理想的な態度、関わり方とは??という問題。(「何か」を敵視?問題視?することは避けられないだろうし、種々検討を継続していくモチヴェーションとしては、敵視や問題視は必要ともいえる。勉強しなければならないのは間違いないが、一体「何を」「どのようにして」勉強すべきだろうか?などなど)



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「場」(平面的な世界観・人間観)、「私」に根差した「方法」の重要性

Twishort / hamaokahlisboa: https://twitter.com/smasuda/stat…

hamaokahlisboa: https://twitter.com/smasuda/stat…

https://twitter.com/smasuda/status/542316157600923648 「特権意識」もそのとおりだと思うけど、これとおそらく表裏一体を成すかたちで、「過大な義務感の拡大」のようなものも見られる気がする。
どういうことかというと、「とある分野での先生」なんだけど、「先生」って呼ばれるからには、、、という感じで、全く素人な分野においても、「えらくあろう」とする感じ。
表裏一体と思うのは、面的拡大のイメージが共通していると感じるので。
言い換えるならば、「なぜ、どういうときにあなたは先生でいられるか?先生でいるべきか?」ということよりも、「先生であるからには、、、」と自分の置かれているに注意が向く。自身の専門分野と、全く無関係な分野とが、容易に面的に接続されるのだ。
何故より自らが置かれている場に注意が向くのかというと、突き詰めるならば、「私は何者?」というコンセプトがほぼなく、「唯一無二の個体としての私」とか「そういう私というのは一体何によって形成されているのか?職業のタイトル?いややはり何ができるか?という実能力?その他の性質?人生経験?エトセトラエトセトラ」というような問いにまで落とし込んでの「私」認識の方法が伝統的に存在しないからなのではないか?
「方法」というのがポイントで、要するに、日本的方法には、「他者と(想像的に観念するのではなく)実際に相対する場」における振る舞い方、というものしか存在しないのではないか?
そのために、振り返るとバカバカしくなるぐらいの、面的な拡大解釈によってその都度その都度の行動が決められてしまっている。
現に使用可能な「方法」を選択しているのだから、全く「悪意」はないはず。
西洋の文化や考え方にも触れるので、色々とボキャブラリーは増えるのだが、結局、その運用方法は「実際に接するであろう他者と私との関係」においてどのように運用するか?に限られてしまうので、例えば、自分の考え、発言、行動について、そもそもその素材が何故今の自分に動員することができるのか?というような問いかけはほぼなされない。あくまでも、自他ともに、互いの目に見えるもの(言葉や行動)から、その素材一つ一つが、その見える姿かたちを通して、比較的齟齬のない意味を発信する、かのような解釈。極端な表現をすると、「お前が相手やからこのように言っている」という方に重点があり、「私が最も伝えたいことはこれこれです」という風な認識が薄い。これはどっちがどっちというものではなく、本来常に悩まされ続ける問題。であるにもかかわらず、日本的方法(「場」重視、実際の相手方対自分(「空想の中の可能性のある自他関係」或は「どこかで仕入れた過去の情報にある自他関係」などはそれほど分析しない))では、実際に接する相手に対し、相応しい選択をしているか否か?を極端に重視するため、「一体私は何を伝えたいのか?」「その伝えたがっている私というのは何故そのように感じ考えるのか?」というところまで掘り下げた、自己の発言、行動に対する責任感が発生しない。
多分、だから多くの日本人(知識人を含む)は、西洋起源の哲学や、キリスト教的な考え方について、その真髄(なんで人々は何千年もこのようなことを考え続けているのか?その理由)が解っていないのだと思う。
つまり、もしも日本的方法になくて、西洋起源の哲学や宗教にある、というものに真摯に向き合っているのなら、西洋の学問知識(特に人文系。人って何?という問いかけ)を、彼らが何千年も繰り返している次元の自己に対する問いを行っていない人々(日本人)には、どのようにして伝えるべきか?伝えることによってどのような利点があるか?ということは考慮されていたはずなのだ。
それがないために、いくら正確に西洋の哲学などを理解したとしても、その問いかけの起源も、運用方法も存在しない日本においては、ほぼ何の役にも立っていないのではないか?
やはり、知識というものは、正確に理解できているか否か?だけではなく、どのように運用されるか?によってその価値が大きく膨らんだり萎んだりしてしまうものだと思う。
知識を活用するためには、日々人々がどのように生きているのか?感じ方考え方の「方法」も知らなければならないのではないか?
そういった「方法」の中でも、私は特に「私というつかみどころのないものといかに向き合うか?」についての「方法」について重点的に(しつこく?)みていきたいと思う。

3 days ago via Twishort

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Thursday, December 11, 2014

言葉と実生活と私(論理、道徳、責任感など)

ともかく言葉というものがなぜか「どうでもいい」と暗に認識されているような気がして仕方がない。
この「どうでもいい」感の根源の内、いくつかは思い当たる。

(1)言葉なんて通じりゃいいんでしょ?通じてるってことは論理的にも整合してるんじゃないの??ってぐらいに論理整合性なんて「どうでもいい」
(2)採用した単語、それらからなる文・文章が、現実のモノ・現象・心的事象などを正確に表現できているかどうか?なんて「どうでもいい」
(3)言葉が何を指し示そうとしているのか?について、正確を期すことが、自分たちの暮らす実生活にどんな影響を及ぼすか?については考えたこともないので「どうでもいい」
(4)特に「過去の発言」と「現在の発言」との間の論理整合性なんてはっきりいって確保できるわけがないんだから、「あの時はああいってたよね?」なんて全く「どうでもいい」
(5)身近に同様の人がいなかったり、いてもすぐそばにいないとかで耳に入りそうもないという状況だったら、「何言ったって構わない」ってぐらい、「他人の感情を動揺させるような過激な表現の後、動揺させたことによるばつの悪さ」みたいなものを感じている形跡がない。つまり、言った言葉が自分自身でどのように経験されその経験を通して自分自身がどのようにじわじわと形成されていくか?なんてことは「どうでもいい」
(6)上記(1)から(5)に通底しているものは、「私自身が現に感受した感覚」が例え言葉でなるべく正確に表現できなかったからといって、「私」が暮らす実生活には何の影響もないだろうつまりは、「私」という人間が感受している感覚のその大元となるものは、「私」の暮らす実生活と同じ空間に存在し、そこから発せられている、という認識がないため、「私自身が現に感受している感覚」なんて「どうでもいい」
(7)故に、「私」にどんな機能が備わっているのか?「私」という人間は実生活において何をどうなすべきなのか?という次元での「道徳観」や「責任感」がその言葉から滲み出ることはないし、つまりは、「私」という人間なんて言葉と同じぐらい「どうでもいい」

いやとにかく、、、言葉に対する真摯さがないのよね。。。(「所詮、、、」って感じ)


山本七平氏の分析に対する考察


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