Saturday, April 9, 2016

【SBS】第60回会合報告:『変えるべきか創るべきか、それが問題だ――伊藤昌亮〈デモのメディア論〉論』

「関係のための関係」 「ほぼ分析を伴わない表現及び他者の表現の認証及び認証したことを踏まえての表現」の単純繰り返し。
「政治の種類?形態?或は市民の政治意識?的には、昔⇒ちょっと前⇒今また"昔"へ、と(意図せぬ)回帰」が見られるが、これは、個々人のレベルでは、特に今も昔も(ちょっと前も)ほとんど何も変わっていないことの証明なのではないか?つまり、メディアの方が、デモという実体を伴う行動よりも、参加者にとっての実体となっているような、「関係のための関係作り」というと何か新現象?のようにも感じられるが、メディアがいかに多様化しようと、情報の内容が変容しようと、人は別段「分析」はしない。何となくの雰囲気で生きているだけ。というなんというか、分かり切ったことの確認のような感じ。
「分析しない」というと理性(の欠落)の問題のように思われるかもしれないが、実は、この「特に分析はしない」というやり方こそが、私たち人間の'理性'であって、より知的にも心理的にもそして多分体力的にも楽な方を'選択'している、ということではないのか。
そうすることによって生じている不安感はあって、その正体とは、「何か大事なものをぬかしているんだろうなぁ」というなんとなくの罪悪感というか、道徳的な義務不履行の感覚ではないか?と考える。
「特に分析はしない」何となくの'理性'に、この何となくの罪悪感(これはおそらくほぼ消し去ることができないもの)を絡めて、大衆、公衆、群衆の分析をすると面白いのではないか?(今後の社会をどうするのか?新しく創るのか?変えるのか?を分析・議論する上で)
私の印象では、現在のデモおよびSNS等メディア上での活動は、道徳的義務不履行の感覚にはあえて注意は向けず、とりあえず「新しく社会を創る」というストーリーを共同で作っておいて、その実、個々人としては「内にこもる(敢えておっきなところ(世界平和とか )は目指さない。)」を選択しているように見える。結果として現れる社会は、割と似通った階級、思想、趣味のコミュニティに細分化された社会。よって、各々が内に籠ることができている分には十分に安定的であるものの、ややもすると他者敵視戦略が横行して一気に不安定さが露呈するような脆弱な社会に見える。
脆弱性をさらに強めている要素として懸念されるのが、「新しく社会を創る」のストーリーを作る仲間が見つからない人間が相当数いて、これは増加傾向にあるのではないか?ということ。つまり、この層の人々は、他者敵視戦略を積極的にとるグループに比較的容易に動員される可能性が高いと思われ、社会全体にとっての危機となりうるのではないか?
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