Friday, December 11, 2015

Sydney bridge

not sure about the name of the bridge

Sydney bridge

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Sydney opera house


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Friday, October 16, 2015

僕が「身体論」を嫌いな訳

最近よく聞く「なんとかと身体」という著述。
私の身体感覚がどうしてもすんなりと受け入れない。
難しいことなのだけれど、身体感覚を重要視するなら、それを「身体感覚」と呼んでは矛盾するのだ。
論ずる以上言葉を使用することは前提とされている。
であるならば、身体感覚を直に説明する論というのは成り立たず、言葉を身体感覚の一部として扱うしかないはず。
「言葉を身体感覚の一部として扱う」とは、少なくとも「身体感覚」を説明概念として使用しないということのはずだ。例えば、言葉は単なる情報媒体ではない、ということを様々な感覚を引いたりしながら、描いていくしかないだろう。つまり、言葉をあたかも私たちが様々感じている物事、言葉にできない雰囲気などなどの分身のようなものとして説明する。或は、言葉を感覚として説明する、とも言えようか。

「言葉を感覚として扱う?」
どうやって???
いや。可能でしょ?
言葉は表象媒体(記号)でもなければ、情報伝達のための道具でもない。
私たちの分身のようなものであると同時に返す刀で私たち自身を形作るもの。
感覚そのものじゃん?言葉って。

身体感覚を身体感覚と呼んでは、身体論の要点が損なわれる、というのは、何かが個人に排他的に属する、というニュアンスを否定できないため、どうしてもそれを「把握」しようとさせる。
これも身体感覚の実体を説明できなくさせる。

要するに、身体感覚といった神秘的な、ちょっとやそっとでは表現できないものについて、「それが大事」と言いたいなら、個人個人の間にある物理的な境界についても、それを前提として語ることはできない、ということ。

それよりもなによりも、「うふふ。。あなたたちは随分ご自身の思い込みに影響されてますね。。だから"本当の"身体感覚を感ずることが難しくなっている。或は、"身体感覚なるものが何か?"がお分かりでない。では、ほんのさわりから伝授申し上げましょう。。」とかって。。。

詐欺師っぽいと感じるのよね。。。

詐欺師になりたくなければ、本人はどれほど身体感覚を鋭敏に保つことが自然かつ重要と信じてはいても、「なんとかと身体感覚」みたいな看板を掲げてはいけないのだ。さもなくば、「自分だけは秘密を知っている」感から逃れられない。これは、意図していなくとも、追従者を「全能を夢見る人」へと導いてしまう。身体感覚というのは誰か個人の固有の所有物などではないのだ。よって、教えたい人も、「知識を与える」という態度ではなく、どちらかというと、協働して、感じ方を工夫しながら高めていく、というスタンスの方がより身体感覚を重視したいという主旨には適合するだろう。

言葉の力というのは別にメッセージの伝達能力ということでもない。
私たちの力、と言ってもいいぐらいのもの。
身体感覚と世に言われているものも全てここに含まれている。
言葉になってしまったら、理性が邪魔をする、と決めつけるのは、実は身体論者の主旨に反するのだ。
むしろ言葉でさえ身体感覚を持って理解できる(すべきだ)し、身体感覚でもって駆使するべきだ、と主張した方がより主旨に沿うはずなのだ。
「理解する・できた」という感覚だって身体感覚と関係あるはずなんだしね。

言葉でもって、詩とか歌とかが成り立つというのも、言葉が身体感覚の一部であることの証拠なんだし。
身体感覚論者としては、このミステリアスで中々腑に落ちにくい言葉の力を、私たちの日常生活で実践的に活用されている能力と関連付けてみる、というのも一つの選択肢であるような気がする。

ともかく、芸能であろうと数学であろうと、表象記号を用いる以上、それらの記号は単なる道具・媒体などではなく、私たちの様々な活動(感じる、感知する、考える、観察する、読むなどなども含む)から、その痕跡のような形で認識操作可能な物的質的性質を獲得していくもの、と前提するべきだろう。記号を使うから抽象性が高くなる?それはそのとおりかもしれないけれど、いかなる記号も私たちの感覚から切り離されはしないのだ。やはり、一見無機的に見える数字などの記号に、私たちの生きている痕跡を感じること、読み取ろうとすることこそが、いわゆる身体論者達の論ずるところを正当なものとするのだろう。



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Friday, July 17, 2015

もう少し力抜いてもいいじゃない

http://kiwamono.blog.so-net.ne.jp/2010-03-09



"これからの時代を考えたときの「各自の生活を美しくして、それに執着する」とは、どういうことなんだろうか。"

まず、本記事のタイトルは、冒頭の3つのリンク記事に対する批判、感想などではありません。

2番目の記事の「反対ではなく平和を祈る」のインパクトが強いので、色々と考えさせられた、ということはありますが。。。

で、1番目と3番目の記事にも引用されている吉田健一氏のことばを思い出したのです。
そして、3番目の記事から引用させていただいているとおり、「各自の生活を美しくして、それに執着する」とは具体的にどういうことなのか?
それを考えることこそが大事なのではないか?と思うのです。
特に1番目の記事に、吉田氏の他の文章がレヴューされていて、それらがいいヒントになっているな、と。

私の考えているのは、「各自の生活を美しくして、、、」というのは、自己との対話というか、己の大切なものとは何か?という問いに関わっているのだけど、日本の特色として、それほど自己とは何か?それが大切に思うものとは何か?というようなことに対して、厳密に定義したりしない。

で、厳密に定義しないことというのはいけないことなのだろうか?と。

現在の安保関連法案への反対運動を見ていて感じるのは、どちらかというと、何事も厳密な定義に基づいて、論理的に議論を組み立てていけば、立憲主義や国民主権をないがしろにするような国会運営、政局運営は許されないことというのが明らかにされ、もって暴政の芽を摘むことができる。或は、将来的な戦争参加、それに伴う国民一般への不利益・不幸も防ぐことができる。そんな感じのまことに全うな正義。の主張。

ただ、もしも運動が功を奏して、法案が廃案になったとして(そうはなりそうにないけど)、廃案に追い込んだという事実以上の何かを得られるのだろうか?つまり、憲法9条が守られた!と喜ぶことはできる。その後の話。

意地悪な言い方だけど、憲法9条は現行憲法の成立以来ずっとあった。その状態が維持されるというだけで、私たちは安心して暮らしていけるのだろうか?

で。「平和を祈る」もいいけど、私はどちらかというと、「各自の生活を、、、」の方が大切と思うのだ。
さらりと言っているけれど、実際めちゃくちゃ難しいというか、チャレンジングなことだと思う。
各自なんていうぐらいだから、本当に様々な生活があることが想定されているし、美しくというのは正しいとか立派とかどうしても階層的・排他的になりがちな価値観ではない、より普遍的なものを追求している感じがする。
さらには執着だから。。
これこそがわが同朋にとっては最もチャレンジングなのではないか?と思う。
私は、吉田氏の文章の文脈では、この執着というのは愛に近いと理解する。
執着にしても愛にしても、ただ、、インパクト強いのよね。。インパクト強いというのは、聞く者のやる気を鼓舞してしまうというか、一生懸命やんなきゃウソなんでないの?と思わせてしまう。
もっとこう、緩い感じでいい。
何故なら、一生懸命各自の生活を美しくして、それに執着してみて、見えてくることは、必然的に自他の逃れられない相対性だから。一生懸命考えてみれば、絶対「自分だけのが絶対美しい」なんて気持ちにはなりっこないから。
世界平和みたいな大仰な理想も、全てそこからしか始まらない。
何処からどう見ても間違っているようには見えないからといって、それに全てを依拠させようとすることは危険だ。
どちらかというと、世界平和が中々成らないのは、絶対正しいとかいうものに人間はどうしても頼ってしまうから。本当の強さ?執着心?というのは、敢えて曖昧さを許容することにある。他人から狢のようだと揶揄されようが、「まあまあ。とりあえず飯食って酒でも飲みましょうや。」って言えるような。強く主張しない信念があったっていい。というか。。いろんな人にいろんな人生とか感じ方があるのだから、信念というのは念じ、口ごもるようなものであるべきではないか?美しさってそういう真に念じるところから滲み出るようなものなのではないか?行動したり、発言したりしなければ何も始まらない。そう思いすぎているのではないだろうか?
真の意味での自他の尊重。
勿論行動することも発言することも尊いこと。でもさらに発言できない行動できない本当に様々な事情だって尊ぶべきなのだ。だって、そんな事情を日々生きているのだって生身の人間なんだから。
唯一絶対なんかより、とりうる選択肢は多い方が絶対よい。
特に勤勉猛烈系の人は、のほほん怠惰系を見て怒ったり、蔑んだりせず、それのどういたっところが広く社会的に問題なのか?利点は本当にないといえるか?勤勉猛烈に検証してもらいたいと思う。

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Thursday, July 16, 2015

安保

考えさせられる。
国会前や大阪梅田等でも沢山の人々が集まっているようで。
考えさせられるきっかけは、Twitter上で国会前に給水車、で、ありがたい、という感じのツイートを見かけたことかな。。

現行憲法第9条を実質無効化するということには、私は反対。実はそんなことよりも、日本が軍隊を持っていることに反対。
ものすごい左翼思想だと多くの人は感じるだろうけれど、左翼なんてもんではない。どちらかというと究極のフェミニズムというか、徹頭徹尾陰の存在を主張したい、という思想です。
日本の文化の特色の一つに、この陰の方にもついつい思いを馳せてしまうということがあると私は感じている。
表があれば裏もある。という感じかな。
そういう感覚というのは多分何も日本人特有の感覚ではないと思う。
相当乱暴にざっくり表現すれば、現代人はついつい馳せてしまう陰の方への思いを、様々な理由によりあたかもなかったかのように扱わされ、それを継続しているうちに陰なんてものはないかのように振る舞い考える人が増加してきている、ということだろう。
言葉を失うということはげに恐ろしいことだ。

で。それで何で日本は軍隊を持つべきでないと考えるか?
ついつい陰の方へと思いを馳せてしまうような人に、近現代風の戦争なんてやってもらっては困るから。
近現代風の戦争というのは、国民国家?主権国家同士の戦争。
徴兵をはじめとして、ありとあらゆる資源を国家が総動員して戦うような戦争。
そんな強大な権力をもつ現代の主権国家ではあるけれど、各種運営を担うのはただの人。
先の大戦などを踏まえ、散々言われているとおりで、そんなただの人々、主権国家が発動する強権に見合うだけの責任や義務は負えない。と多分日本人の多くが感じている。感じているから本当にそうなる。誰も「おれが責任取る」なんて言わないし、そんな風には振る舞わない。上のお話。
で。下々は?これもやばい。だってついつい陰の方にも思いを馳せてしまうんだもの。様々複雑な思いを抱えつつ。。でも結局長いものには巻かれちゃうのよね。
様々複雑な思いを抱えているから、そりゃ実際のところはまあ様々醜いというかえぐいお話も出てくる。
そういうことがなかったとしても、それでも上は自らが行使する権力について責任も義務も感じないし、下は下でかなり容易に「仕方ない」と思ってしまう。そんなんで一度きりの人生、命が扱われてしまうのってどうよ?ということ。
人の人生なんて切ないもんだけども、一人一人の命の尊厳みたいなものを諦めてしまうというのはよくないことと思う。特にまだ人生の世知辛さなんて経験していない幼子とか、これから生まれてくるであろう命のことを想うとね。「ほんじゃなんで俺ら産むねん!」ってことじゃん??産み落とされる側からすれば。尊厳をあまりにあっさりと諦めるってことは。
命の尊厳というのは日本人であろうと外国人であろうと変わらない。よって軍隊なんて普通の主権国家並みに持って、戦争なんて手段にうったえてはいけない。だって自国民の命だって相当軽々しく扱いつつ、他国の人々の命まで奪ったりするのよ?行使するパワーに見合った責任や義務を負う気持ちもない人に殺されてみるってどうよ?ってことで日本は軍隊なんてもっちゃいけないの。

そもそも責任とれないし。いやいやそれは分からんでしょ?とか変えてかなきゃ!とかいう男前もいると思うけど。歴史を振り返って、無理だから。そもそも日本人ってそんな男前じゃないというか男前にはなりきれないのよ。で。男前でないと生きていけないのか?というとそんなことはない。それは個人レベルは勿論、国家みたいな大括りのレベルでも言えること。軍隊持たないで口先八丁だけでなんとかやってけないか?ひとまず言えることは、男前になりきれない、という特性にだって利点はあるということだ。当の本人たちがその価値をあまり積極的に認めていない。そんな風に感じられる今日この頃。安保関連法案については、審議の経緯とか、採決の方法とか、全て問題ありと思うけれど、それに反対する運動が、どうも空々しく見えてしまう。多分私たちは真剣です。と主張するだろう。こういう時に行動を起こさないでいつ起こす?とも言えるだろう。言い分は十分に分かるのだけど。本当の危機というのはそこじゃないと思う。開国以来?明治以降?誰も男前に(西洋風に)「男前になりきれなさ」を分析して、なりきれない本人たちに「それは使いようによってはいいものだ。でもこういう点は注意しよう。」みたいな貢献を成してこなかった。それぐらいにわれわれの「男前になりきれなさ」は徹底しているものだ。と。せめてこの程度には自らに向き合い、それに基づいて自他ともに愛せるようになってもらいたいと願うのです。


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Sunday, June 7, 2015

日本創生会議への違和感

まだ漠然としているけれど、これだけは確か、と思えるのは、日本の伝統と西洋由来の合理主義のミックスの仕方において、最悪なコンビネーションがここでも如何なく発揮されているということ。
シンプル化すると、ヒトの命は軽く、だからこそ計量可能だ、というもの。

「地方創生」とか「地方再生」とか言うけれど、そもそも「地方」という言葉はあまり有効でないような気がする。
この「地方」という言葉が意味をなすのは、「中央」との関係性において。
したがって、「中央」と「地方」とがどうしても存在する、現状の主権国家を大枠とした統治形態において、政治家なり、行政なり、思想家なりが、「中央」と「地方」とを、単なる対立概念としてではなく、どちらも日本国民が生活する場として、政策枠組み、行政枠組み、および思想枠組みを検討・構築・見直しを不断に行っていなければ、「地方」というのは、単に、経営的に非効率で、土地(都市部からすると貴重な資源)だけは余っている、というような捉え方しかされえないから。

こうしたいわば国家とは何か?に関わる制度、政策、思想が一朝一夕にして変わるとは思われない。
ゆえに、私としては、現行の行政、各種社会福祉制度がこのままでよいとは到底思わないけれど、「人間が平均して80年もの人生を過ごしていくということはどういうことか?」。その考え方を地道に充実させていくことに集中したい。いわば、急がば回れ。
「この逼迫した危機から目を背けるか?」と「待ったなし」派の声も小さくはないだろう。
が。
人間の歴史って短いけれど、結構長いこと(2千年とか)色々なデータを残してくれている。
それに基づけば、「目先の不安感に煽られてあまりいいことはない」ということ。
それよりも、自分達って一体何なのか?人生ってどう送ることができればまあまあ充実感持って死んでいけるか?とかをきちんと考えられるようになる方がよっぽど大切だと思う。何故なら、一寸先だって実は闇だから。みんな「予測できることも予測しようとしないなんて馬鹿だ!無責任だ!」って思っているようだけれど、その「馬鹿!」「無責任!」って断言だって、実はそれほど確証が持てているわけではない。いくら「いやこの程度は絶対です!」と強がってみたところで、その人だって究極の真理なんて何も断言などできはしないのだから。一人の人間である以上。どちらかというと、知りもしないクセに「絶対」とか言ってる時点で、そっちの方が倫理的に問題ありとも言える。

発言するなら皆の希望が湧くように。「いや。この程度は基本やし。全く馬鹿を疎外しようなんて考えてないですよ。」なんてこと言っていたって、圧倒的多数の知性に優れた方の人々は、「自分は大丈夫」ってボーダーを引いている。それはいくら善意にやったってどうしようもないことなんだと。そのような気づきがない以上、自らのパワーがより弱い人々の選択肢を狭める方向に作用してしまう、ということなど気づけないだろう。要するに平気で、いいことしているつもりでかなり多くの人間の人生にマイナスの影響を及ぼしてしまうということ。これなんとかしないと、いつまでたってもくだらない争いが絶えないだろう。
一人一人感情は持っていて、加えてその人なりの「正しさ」の感覚だって持っている。
そういったものの圧倒的多数は表に現れず、流れ去っていってしまっている。
勿論全部100%を認識し、それを踏まえて行動したり発言したりなんてことは不可能。
だとしても、自分もヒトなら他者もヒトだ、ぐらいの認識は必要だろう。


やっぱり学校?私塾?かなぁ。。。やるべきことは。。。お金とか稼ぐための能力開発だけではなく、人間のこと考えていたって、生きていくこと、多少の人間を養い、育てていくことは可能だ、ということを示さなければならないし。。。
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Tony Soprano and reflexive socialisation in late modernity | The Sociological Imagination

Tony Soprano and reflexive socialisation in late modernity

Posted By Mark Carrigan
Watching the Sopranos, I was struck by what a good example this was of what Margaret Archer argues are the consequences of the intensification of social change for intergenerational socialisation: the decreasing likelihood that children will encounter occupational roles familiar to their parents will tend to increase the degree of reflexivity with which the parents orientate themselves to the lives of their children. If they don't feel they understand the occupation world their children are entering tha[e]n what might have otherwise be a transmission of normative guidance is more likely to become a generalised expression of support as they make their own choices.

It seems that Margaret Archer's reflexivity builds upon dubious conception of self-other relationship.

To orientate one to particular others' lives does not seem to be increase of reflexivity, in my view. It rather appear to be one's self-serving assumption that one can appropriately sufficiently imagine such particular others' lives. In other words, if reflexivity refers to one's capacity to imagine certain others' lives setting aside one's own, it should orientate one towards one's own, rather than such others', experiences. While it may sound quite the contrary, it is actually not. Just remember: Can any of us assert that s/he even sufficiently appropriately manages to imagine any other's lives? The answer is definitely 'No'. Then, so assuming is quite the opposite to the increase of reflexivity thus decrease of it. The increase of reflexivity should lead one to be reflexive to the degree that one comes to know of the impossibility to imagine even sufficiently appropriately lives of as intimate others as one's children. 
Then, the argument of Archer and/or the episode from the Sopranos that the author refers to rather explicate the consequences of the intensification of social change as exacerbation of the conventional (modernist/positivist) assumption that we can understand anything objectively, regardless of material artifacts or human beings. Because modernists assume that they can orientate themselves to particular others' lives without regard to the intricacy inherent in assuming others' whereabouts, they tend to believe that they are sufficiently reflexive only if they refrain from prescribing certain normative guidance, which they believe builds upon their own experiences, and instead, give such others 'if-I-were-you' statements. The flaw of modernist/positivist conception about self-other relationship resides in these shallow assumptions that one can, even if only imaginatively, take others' roles/positions; ideas/opinions established by putting one in others' shoes can exempt one from prescription of self-serving and/or anecdotal normative guidance; and 'if-I-were-you' statements, typically if they are supportive of particular others, can demonstrate one's compassion towards such others as a means to exempt one from bearing responsibility for such others' whereabouts and future basing such exemption on their admittance of utter differences between one's own and such others' experiences. 
This appears trivial and too critical, but is actually significant for construction and management of social reality. First, mere admittance of differences in experiences between different actors never exempts anyone from bearing responsibility for her/his own sense of moral/evaluative appropriateness. That each actor has uniquely her/his own experiences is a presumption. Second, even if each of us is an independent individual, none of us is capable of  going about everyday life without entrusting others to speak for one's being. Hence, rendering others support in tangible forms can never exhaust further possible support. On the contrary, believing that tangible support is  an exclusive means to render support to others is irresponsible or unethical in the sense that such a belief is actually meant exclusively for concluding contracts that falsely draw boundaries of moral responsibilities, often by the more powerful's taking advantage of power imbalances. Third, unless conceptualizing self and others to be never conclusively separable, actors are fated to continue to be unaware that the only means to be ethical is to read others' moral sentiments, which can rarely be observed directly; thus, they continue to be complacent about their own assumptions about reality without regard to negative effects of their actions and/or words on the more vulnerable /less powerful. Regardless of being self-serving or empathetic, taking actions, including expressing words/voices, are felicitous events. Besides, no observable action can be made without excluding other possible reality. In other words, it is both theoretically and practically impossible for anybody to be exempted from bearing moral responsibility for such inevitable negative impacts on others. The only means to compensate for this inescapable moral dilemma is to act in ways that enhance others' taking actions. 
Such is, however, not possible merely by offering guidance or supportive comments. Rather, actors ought to attempt to encourage others to tell their own stories in their own ways. To do so, first and foremost, one needs to contemplate one's own moral sentiments; then, proceed to proposing ways of mimicking one's ways by which to come about one's moral sentiments. By so doing, others are expected to imagine their own moral sentiments by reference to actions/words presented to them. We need to renew our understandings about mundane interactions with other actors in ways that put what is not observable on the center of interactions. Ideally, we communicate with each other's moral sentiments by means of plot, which consists of five constitutive elements: acts, actors, scenes, purposes and agencies, and which operates along the triadic logic of imagination, apprehension and consensual validation.

  

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Friday, February 27, 2015

Monday, February 9, 2015

Nuclear power station is

http://www.twitlonger.com/show/n_1scc1gu


'Ultimately the ethical/ political question of the nuclear power station is not only "is it safe?" but also "is this the sort of humans that we want to become?" (Introna, 2013: 267)

Even those who try to understand rationally and scientifically the problems over Fukushima had better ponder about what the quotation above means.
Each of us inevitably holds particular values, moral and evaluative preferences toward a variety of things surrounding her/him.
Since neither rationality nor scientific approach can be treated as a kind of universal law to which any of us has to subscribe, these never validate one's ethical correctness.
Ethical correctness is always determined socially.
Considering the multiplicity of variance in people and contexts in which they are situated, even serious pursuit of rational decision excluding political interests, emotions, sentiments or feelings should not assert its correctness towards other people. Rather, one has to keep on pursuing better ways to converse with each other.
Turning down seemingly irrational sentiments is actually serious violation of ethical practices.

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