Sunday, June 7, 2015

日本創生会議への違和感

まだ漠然としているけれど、これだけは確か、と思えるのは、日本の伝統と西洋由来の合理主義のミックスの仕方において、最悪なコンビネーションがここでも如何なく発揮されているということ。
シンプル化すると、ヒトの命は軽く、だからこそ計量可能だ、というもの。

「地方創生」とか「地方再生」とか言うけれど、そもそも「地方」という言葉はあまり有効でないような気がする。
この「地方」という言葉が意味をなすのは、「中央」との関係性において。
したがって、「中央」と「地方」とがどうしても存在する、現状の主権国家を大枠とした統治形態において、政治家なり、行政なり、思想家なりが、「中央」と「地方」とを、単なる対立概念としてではなく、どちらも日本国民が生活する場として、政策枠組み、行政枠組み、および思想枠組みを検討・構築・見直しを不断に行っていなければ、「地方」というのは、単に、経営的に非効率で、土地(都市部からすると貴重な資源)だけは余っている、というような捉え方しかされえないから。

こうしたいわば国家とは何か?に関わる制度、政策、思想が一朝一夕にして変わるとは思われない。
ゆえに、私としては、現行の行政、各種社会福祉制度がこのままでよいとは到底思わないけれど、「人間が平均して80年もの人生を過ごしていくということはどういうことか?」。その考え方を地道に充実させていくことに集中したい。いわば、急がば回れ。
「この逼迫した危機から目を背けるか?」と「待ったなし」派の声も小さくはないだろう。
が。
人間の歴史って短いけれど、結構長いこと(2千年とか)色々なデータを残してくれている。
それに基づけば、「目先の不安感に煽られてあまりいいことはない」ということ。
それよりも、自分達って一体何なのか?人生ってどう送ることができればまあまあ充実感持って死んでいけるか?とかをきちんと考えられるようになる方がよっぽど大切だと思う。何故なら、一寸先だって実は闇だから。みんな「予測できることも予測しようとしないなんて馬鹿だ!無責任だ!」って思っているようだけれど、その「馬鹿!」「無責任!」って断言だって、実はそれほど確証が持てているわけではない。いくら「いやこの程度は絶対です!」と強がってみたところで、その人だって究極の真理なんて何も断言などできはしないのだから。一人の人間である以上。どちらかというと、知りもしないクセに「絶対」とか言ってる時点で、そっちの方が倫理的に問題ありとも言える。

発言するなら皆の希望が湧くように。「いや。この程度は基本やし。全く馬鹿を疎外しようなんて考えてないですよ。」なんてこと言っていたって、圧倒的多数の知性に優れた方の人々は、「自分は大丈夫」ってボーダーを引いている。それはいくら善意にやったってどうしようもないことなんだと。そのような気づきがない以上、自らのパワーがより弱い人々の選択肢を狭める方向に作用してしまう、ということなど気づけないだろう。要するに平気で、いいことしているつもりでかなり多くの人間の人生にマイナスの影響を及ぼしてしまうということ。これなんとかしないと、いつまでたってもくだらない争いが絶えないだろう。
一人一人感情は持っていて、加えてその人なりの「正しさ」の感覚だって持っている。
そういったものの圧倒的多数は表に現れず、流れ去っていってしまっている。
勿論全部100%を認識し、それを踏まえて行動したり発言したりなんてことは不可能。
だとしても、自分もヒトなら他者もヒトだ、ぐらいの認識は必要だろう。


やっぱり学校?私塾?かなぁ。。。やるべきことは。。。お金とか稼ぐための能力開発だけではなく、人間のこと考えていたって、生きていくこと、多少の人間を養い、育てていくことは可能だ、ということを示さなければならないし。。。
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