Thursday, September 26, 2013

間違わない人たち

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間違わない人たち

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130926-00000006-asahi-soci

人間は腐りやすい。
根源は人を人と思えなくなること。
これは人として生きている以上間違いなく誰もが経験することだから、画一的に悪であると断じることはできない。
問題は、この逆説的な宿命、「人として生きているからこそかなりしょっちゅう人を人とみなさない行動や考えをしてしまうということ」、に対する向き合い方なのだと思う。
簡単に言ってしまえば、人は過ちを一切犯さずに一生を全うすることはできない。
当たり前のこと過ぎて、みんなそんなことは分かっているつもりなのだろう。
みんな間違うんやったら、いちいちそれ認めて、自己の内部に取り込んで、いやっちゅうぐらいに反省してみる、なんてしんどいことする必要なんてないだろう。というのが大方の趨勢なのだろう。
ましてや、間違いを認めて謝罪するなんてことはもってのほかのまっぴらごめん。なぜなら、結局みんな間違いを起こしているんだから、わざわざそれ認めて、謝罪なんてしてごらんよ、黙ってればその他大勢の間違いを起こす人々でいられるものが、目立つだけで何の得もない。そもそも間違いました。ごめんなさい。なんつったって誰が信じるよ。みんな間違い起こすんだから、こいつ謝ったってどうせまたやるぜ。って思われるのがおち。だったらとことん非は認めないのが一番賢いやり方じゃないの?ま。俺も間違うけどね。でもみんな間違うんやからええやんな。ほんでもって誰も謝らないんやし、俺も謝るなんてぜってーしねー。とかって感じかな??極端に表現すればね。
おざなり、表面だけの謝罪ではない、本心から間違いを認めて謝ることをしない弊害は大きく分けて二つ。
学習効果が全く期待できなくなること。
それと。
世の中で楽に呼吸できるスペースや時間が壊滅的に減少すること。
最初の方は、間違いを認めないんだから、間違った点を修正しようとする努力はしないわけで、よって「失敗は成功の母」状態が生じない。
え?別に失敗したことについて反省したり謝ったりしなくったって、同じ間違いを繰り返さないように努力はするし、同じ間違いはしにくくなるんやからええんちゃう?と思うでしょ。
そのとおり。
でも、一度やっちまった!と思った失敗感が苦くて、本当にその同じ失敗をしにくくなったというのであれば、反省しようがしまいが、謝罪しようがしまいが、それは失敗を失敗と認め、行動や考え方を修正したということ。きちんと自分自身の中ではけじめはつけているわけです。
ただし、世の中、失敗しちまった!という時、結構「も一回お願いします」って思っても自分だけではなんともならんことがある。ほっといたら修正のチャンスすら与えてもらえないことが結構あるということ。そんな状況に陥った時、「も一回お願いします」というのはかなり勇気がいる。現に失敗しちゃったわけだから、バツは悪いし、再度のチャンスが与えられないかもしれないというぐらいだから、関係者も「失敗しやがったな」と思っている可能性が非常に高い。よって、そういったネガティヴな評価を下した人々に、「も一回」を認めてもらうことはなかなか骨が折れよう。また、認めてもらえたとして、きっちり修正して見せることができるか?というプレッシャーもでかいだろうし、一瞬で終わる仕事でなければ、再挑戦中の評価者からの視線も気になることだろう。俺ってやっぱ信用されてないかな?と思いつつ過ごすのは結構つらい。。。などなど。なのでなんとか失敗は認めず流してしまいたい。万が一見つかったとしても、頑として非を認めなければ、案外そのうち忘れられるかもしれない、と期待してしまうのも十分ありえると思う。まあ失敗は誰でもするわけだから、その一つ一つについて本当にマジで失敗と認め、修正がなされるなんてことが起こるのなら、世の中相当進歩が違うんだろうけれども、そんなことは実際には起こり得ない。そもそも失敗失敗言っても程度とかどういった状況で?どういうふうな迷惑がかかった?とかはまちまちなので、ひとくくりに反省しさえすれば進歩するんだよ!!なんてこと言えるわけがない。ただし、まちまちなのでね。逆もあるのですね。どんだけバツが悪かろうが間違いましたって認めて、やらしてもらって、修正して見せねばならんことだってある。そりゃもう一人ひとりがどう感じるかなんだけども、「へ?けじめ?なにそれ?」で人生50年だが60年だか70年だか通せるのか?と。私はそれはないんじゃないのか?と信じているわけです。
もう一個の非常に抽象的な方は、間違っちゃったかも、、という感覚の解消を自他の忘却に頼るというのは、却って生きにくくなるということがいいたいのだけれど、これは単に苦い思いを誤魔化して忘れるまでの時間がもったいないとかいうだけではない。冒頭の方で「みんなどうせ間違いはするし、いちいち反省したり詫びたりは別にたいしてやんなきゃなんないことでもないんじゃないの?」という非常にラフではあるけれども、多分このような筋立てで、反省するとか、謝罪するとか、よっていらん責任被るなんてするわけない、という行動が定型化しているのでは?という推測をしてみたのだけれど、ここに含まれている自他にまつわる想定が非常に甘えたものになっている、ということも指摘してみたかったのです。甘えたものというのは、「これぐらいええやんなー」という感じとか、「みんなそーなんやから」というその「みんな」って何よ?にんげん??そやったらちょっと気持ちとか心とか、そりゃあやふやなもんかもしれんけども記憶とか、にんげんのにんげんたる所以ともいえる特性について想定が浅すぎやしないか?という感じ。「反省したってどーせ信じてもらえない」とか「そのうちぼくもみんなも忘れちゃう」とか「しんきくさいことぐちぐち考えたり、指摘されたり、指摘したりなんてことしないで、みんなで明るく楽しく。これでええんちゃう?」とかね。人間みんな誰だって間違いは犯すって想定からスタートして、でも結局は、「それでも人間」って大事に思うんでなくて、「だから人間しょーもない」とか言ってへらへらしてる感じがするんだけど、なんでそれだと益々生きにくくなるのか?要するに自分のことも他人のことも「こんなもん」とすることは、みかけは「こんなもん」で落ち着くかもしれないけれど、活力を著しく奪ってしまっているというか、本来人間の感覚とかそれから派生する考えとか行動とかって、なかなか予測がつかんところに自由度があって、そりゃ外れもあるかもしれんけども、当たった時嬉しかったりするとかいうのが楽しいんでないか?と思うんだけどもそれがない。あっても全くの運だよりで、そこに「ちょっと運たぐりよせるようにがんばってみました」みたいな自分なりの存在感のようなものがない。人を人とも思えないというのは、誰でもやるんだけど、やっぱりそれは理想としてはやらないですむならその方がいいのです。でもやっちまう。だからといって「どーせ」はいかん。そもそもそれってウソやん。いくら言葉で「所詮こんなもんです」って言ってみたとして、何も感じてないわけがない。でも「どーせすぐ忘れる」からいいんですかね?そうやって「どーせ」「どーせ」「みんなどーせ」ってどこまで言い続けるのですかね???苦い思いは少ない方がいい。でもにんげんってものをあまくみる方法でなくても、いくらでも誤魔化し方なんてあると思うのです。それでも「どーせ」でいいのかもしれない。ただそれはかなり異常ともいえるぐらいの「甘えていられる状況」なんだな、ということは知っておいてもらいたい。いつなんどきもは無理としても、「はい。これ間違いなく私ですし、わたしの所業ですし、よって責任とれるのは私しかおりませんな。」という存在証明を出さねば、シンプルに、存在しないものとして扱われるのみ。もっとシリアスなのは自分の中で何がほんまでなにがウソなんかが全く混乱して解らんようになる。そんなのほっといてもわからんわい!そうよ。でもわからんからって、わからんまんま雰囲気だけで敵作ってみたり、脅しかけたり、闘い挑んだりしてね、結果沢山のひとの命奪ってしまったとしても、なんでそーなったんかもわからんってなったらこわいでしょ?こわくないのかな?だって日本人はそれやってきたし、今もやっているから。私は、人生なんてしんどいことの方が多いし、必死こいてやってみたところで大したもんにゃならんと思う。でも、であるからなおさら丁寧に向き合わねばと思う。だってそんなしょーもないもんのために誰かに迷惑かけたくないもの。命奪うなんてもってのほかですよ。しょーもないもんだからどーせでいいのか?そういう態度って結局自分のだけでなくて他人の人生まで同等にしょーもないもんと思っているんだってこと気づいた方がいい。なんでもありでもいいけれど、他人様の人生をしょーもないなんてことは私は言えない。よって自分のはしょーもないとは思うけれども、丁寧に向き合うしかない。どんだけ丁寧にやってみたってさ、他人様に迷惑はかけてしまうんだしね。。。世の中に間違わない人。無謬である人なんていないのですよ。それを分かっているっていったって罪は消えるわけではない。簡単なことだ。何でもかんでも想定の範囲内に収めてかりそめの平安を手にするなんてのは非常に幼い手法。ま。別に成熟が至高というわけでもないんだけどね。。私はせっかく生きているのなら、それなりに年くったように生きていきたいとは思ってますがね。

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