Thursday, September 12, 2013

日本人に足りてないもの

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日本人に足りてないもの

これは2011年とか2013年とかに始まった話ではないし、そんな短期間で証明できるようなものでもないと思う。私が、これは歴史が証明していると思えるもの。これはある意味肯定的な日本人の側面に暗示されている。それは空気を読む(読める)こと。真実とか事実関係とかなんて二の次にしても、今現に自分の置かれている状況を丸く収める(ことができる)ことが最優先されるということ。非常に実践的で、抽象的な絶対善とか絶対美なんてものはあまり意味がない。空気が読めなきゃ仕方ないのよね。足りていないものというのはそこ。絶対善とか絶対美なんてものはあえて追究しないというところ。つまるところ、ただそういう探究心が組織的に抑圧されているということだけなので、はっきりいってしまえば善でもなければ悪でもない。どちらかというと普段の生活を送る上ではとってもまどろっこしくなくて(抽象的な議論に忙殺されることもなくて)、その場その場の調和も保てて、いいことばっかりな感じもしないではない。問題は、実は人間の住んでいる世界においては、絶対善や絶対美を追究してみるということは、単なる贅沢(貴族とか頭の特別にいい人だけがやってればいいこと)でもないし、ただの抽象的な概念であって物質からなる実生活の面には直接的な影響はない、と断言することは、肯定的な因果関係を科学的に証明するのと同じぐらい難しいものである、ということが見過ごされている点だ。簡単に言えば、私たち人間は、意識を持って生きている限りにおいて、ちっとも絶対善や絶対美を意識せずに一生を終えることは不可能ということ。大切なのは、そこに絶対善とか絶対美が本当に存在するのかどうか?ということではなくて、それらを「もしもこういうものがあったとしたら?」と考えなければ日々の生活が実は成り立たないということなのだ。(←なんで??

考えてみましょう。空気を読むというのはどういうことなのでしょう?どういう状態を空気が読めている状態というのでしょう?空気を読むためには何をすればいいのでしょう?

空気を読むというのは、自分が置かれている場に、どのような人がいて、自分も含めて現にどのような行動をとっているのかが把握できて、さらに、それぞれの人がそれぞれに形成するそういった推測のようなものに、致命的なコンフリクトがないことになっていなければなりません。理屈で分析してみると非常に大変なことを日々こなしているということなのですね。さらに、「空気が読める」という表現自体も意味があって、これ、ものすごく抽象的なくせに、わたしたちの日々の感覚とフィットするんですよね。つまり、徹底的に、「理屈なんぞで考えんでもいい。いや考えちゃいかん。」と言っているんですわ。

でも。考えてみてください。なんでそこまで徹底的に「理屈なんて屁の役にも立たん」と念押しする必要があると思います?理由は簡単。みんな理屈で考えようと試みてしまうからなのです。「空気が読める」というコンペテンシーは、なので一体何と何と何とができるんですよ!という類の自慢ではなくて、そんな大変なことも大した理屈労さなくたって軽やかにできまっせ!という類の自慢なのです。軽やかにできないと駄目なんですわ何事も。日本では。努力するにしてもさらっとね。これがスマートでいかしてるわけですわ。

努力は美しいものだけど、その必死こいた姿はあまりひと様にゃ見せるもんじゃない。これ日本人にとってはかなり根付いている美徳ですよね。(だからって日本人全員が努力家かどうかなんてことは別にして。)先述したとおり、空気を読むのも大変なんですわ。実は。みんなそれ解っているから、いちいち自慢するための言葉がある。「空気読める」なんてね。でもどんだけ必死こいて空気読んでいるかは自慢しちゃいけない。スマート感を漂わせることができる。「空気読める」。

何言ってるのかって?表現したかったのは、そこに含まれている抑圧です。空気を読む努力というのも、一つの抑圧であれば、それを表現する仕方まで制約付き。あからさまにがんばってますとか読めてますとか自慢しちゃいけないわけだから。空気を読む努力自体はその人の好き好きだから、勝手に抑圧でもなんでもすればいいんだけど、表現の仕方まで考えなきゃならんって。。。仕方のないことなんだけど、すごい文化だよなと思う。せっかく苦労してるんだったら、いやあこことこことここんところ、めっちゃ工夫したんですわ~とかって自慢したくなりません?まあケースバイケース。いろいろとは思うけど、あんまり繰り返し繰り返し「あからさまに自慢しちゃいかん」と自ら或いは社会から言われ続けているもんだから、「自慢?そりゃしようと思えばできるけど。やんないだけ。だってえらそーって言われるだけでしょ?」というレトリックが蔓延してしまっているのではないか?と思えるぐらい。ここまで理屈で考えてみる、ということが意識の下層の方へ埋葬されてしまっている文化ってなかなかないのではないかと思う。もちろん洋の東西を問わず、似たようなことはあると思いますよ。humbleとかmodestyとかさ。ちょっと恐ろしいと思えるのは、空気読むなんてのはほんの一例というだけで、対理屈という点においては、非常に徹底して「やるだけ無駄」という流れになるように全てがあたかも仕組まれているかのように感じるところ。理屈って絶対生きてればその数分なり、数時間ぐらいは一生分足せば頼っていると思うのですよ。めっちゃ少なく見積もってますが。でもあらためて理屈こねます?(ってこの問いかけがすでに否定的なんだけども。。。)って聞かれたら、多分日本人の9割ぐらいは、本当はこねるかな?と思ってても、あんまり堂々と「こねます」とは答えたくないと思うだろうと思う。社会の雰囲気がそうだから、というのもあるけど、それがなかったとしても、理屈って頼ってみたらだいたい途中で嫌になってくるし、ものすごくまれだと思うけれど、運よく解答のようなものが見つかった気がしたとして、実は世の中の見え方とかがほぼ変わらない、つまりはほとんど意味があったと思えないような代物だから、なかなか人気は出ないというのもある。見逃されている点は、理屈って頼ったら何か解答が得られるべき、とか、実生活において目に見える利益が得られるべき、という功利的ともいえる仮定が、さらに不人気を増幅させているということ。理屈って誰でもこねるんですよ。好き嫌い関係なく。なんでそんなもんにクリアカットな解答とか、目に見える実利益なんてものが伴うのよ?伴うわけないじゃん。こういう結果が得られないものに対して、即座に「無駄だ」と片づけられてしまうのには理由がちゃんとあるんですよね。それはごく少数の限られた人だけではなく、ともかく膨大な数の人間が成功者もしくは失敗者ではない者の側にいると思えるぐらいの、かなり長期にわたっての成功体験が一つ。もう一つは、空気が読める、その源ともいえる、よくいえば思いやり、ちょっと否定的ニュアンスを加えて言うならば甘え。前者の方は高度経済成長のことなので、あまり多くは語る必要もないと思いますが、何故そのような成功体験があると、クリアカットな答えを持たないものを否定するのか?だって成功体験なんですから。解答は努力すれば手に届くところにあり、それが手に入らない人は努力が足りないだけ。そんな世の中なわけですよ。ね。夢のようなクリアカットな世界でしょ?でもそれが日本にはあった。そしてその幻想はまだ続いている。後者の方は意外?不明と思われる方も多いかもしれません。思いやりは甘えなんですよ。実は。他者を思いやれるえらい人ってだけではないのです。なんでか?だって思いやりなんていったって、他者のことですよ。何をどうすれば思いやってあげられていると断言できます?全ては状況証拠頼り。つまるところ、思いやってもらっていることになっている側からの、渋々か喜んでかはいろいろあると思いますが、受け入れがあるということなんですね。だから、思いやりというものが成り立っているとするならば、それは思いやっている側が一方的に施しをしているのではなく、「思いやりってことで認めてもらっている」ということなんです。なのでそもそも思いやりなんて言葉が標準語彙に含まれているということ自体が、社会的に甘え体質、とうことなのです。誤解してほしくないのは、甘えというのは決して悪者でしかない、というわけではないということ。甘えという言葉がこれまた標準語彙にあるように、多少の甘えというのは他者が弱っているならば、それは解ってあげようという一つの思いやりなわけです。思いやりと甘えは表裏一体。かつ。自他の関係にまつわる規範ともなりうる言葉なのですね。で。これとクリアカットじゃなきゃダメ、との関係なんですが、これは少々面倒くさい。だって本来はクリアカットじゃなくてもよしとしようよ。というものであったはずなのに、現実はそうなってないから。問題は何に対して「よしとするか」なのですね。今起こっていることは、世の中全部クリアカットなわきゃないけど、そっちの方がええことになってるみたいやから、そういうことにしとこうや、という感じでしょうか。簡単に言えば、世の中クリアカットに処理していけば、結局そっちの方が整理もつきやすいだろうし、世の中丸く収まるんじゃないの?とまだみんなが信じているということでしょうか。すごいポジティヴですよね。一見。でも現在の日本。あんまりポジティヴな雰囲気でもない。なんででしょう?見逃されているのが、ポジティヴなヴィジョンなんだけども、ほんで誰がクリアカットに処理するん??という点。見逃されているというか、そんなとんでもないお役目ご免だね、と、大多数の人が思っていることなのです。すごい矛盾。ポジティヴなヴィジョンなのに、誰もそれ実現しようなんて思ってないんですから。甘えというのは決して悪いだけのものではないと言ったけれども、ここまでいくといけない。もちろんとある少数の人々だけに重大な責務を果たしてもらうなんてことはしないで、いいよいいよ、あんたらだけがやるこたないよ、と言ってあげられるのは、ちっとも悪くなんかない。問題はだから対他者ではなくて、対自分自身なのですよね。甘えも思いやりも、我が出過ぎてはいけない。そうするとまず他者から受け入れられない。自己抑制の文化は思いやり、甘えが標準語彙に定着するぐらい、これらとぴったりとフィットするんですね。何が言いたいのかというと、日本人って基本的に自分自身は自己抑制できている、もしくは当然のごとくしようとしている、と信じているんですね。だから、甘えも思いやりも成り立ってきた。文化として。問題は、自他の関係というのは、何十年も何百年も安心してこれさえ守ってりゃ大丈夫、といえるような明確な規範とか、もっといえば境目なんてない、非常に微妙なものなのだ、ということが社会的にほとんど気づかれていない点。自己抑制は、その文化自体がいいとか悪いとかではない。自在にコントロールできるというなら、それほど美しくて、かつ、社会の利益に適うものはないだろう。で。何コントロールするって?自己?自分自身のことなんやから簡単やろ?と。これがおっきな間違いの始まり。すでに思いやりと甘えの表裏一体性のところでちらっと触れたとおりです。自他の関係なんてその時その時でどうにでも変化するのですよ。なのでもしも「はい。私は自己の欲望はきっちり、いつ何どきも抑制できます。」なんて断言する人がいたなら、その人のことはあまり信用しない方が大けがしなくて済みます。何故か?自己のあやふやさに気づきもしていない人が、他者に気配りなんてできると思います?まずできるわけない。理論的に無理なんですよね。日本人の自己抑制の文化が、現在、多くの日本人をこの「自己のことぐらい」断言系の人間にしてしまっている。「自分のことぐらい」と責任を持とうとする態度は全く悪くない。問題が出てくるのは断言しようとする時。簡単に断言してはいけないのです。何事も。曖昧模糊とさせとくのはそれこそ責任逃れではないか。そのとおり。でも断言してみたところで責任を負っていることには必ずしもならない。そもそも思いやりとか甘えとかがあるのは、断言してみたところで責任とれないからなんですよ。断言する人には痛みが伴っていなければならないし、断言なんて到底できそうもない人は、そんな痛みを解ってあげなければならない。甘えとか思いやりとかが美しくいられるのはそういった状況に限られるのです。まとめると、世界史を見渡しても類まれなほどの規模とスピードで過ぎて行った成功体験により、日本人の世界観は非常にシンプルなものとなってしまった。その結果、もともと理屈っぽくなかった人々は、ますます理屈離れしてしまった。そこはかとなく流れる空気を読み、スマートに暮らす。そんなぼくらはとっても社会配慮のできるよって自己抑制のできる立派な人々。ものすごいシンプル。世界観も人間観も。で。どうする?シンプルな世界観、人間観っていけないの?全く。シンプルイズベストですもの。でもね。ウソはいかん。自分に対するウソは。社会的な価値観に合わせることは大事だし、合わせられることは意義のあること。でも。人間って気持ちってものがあるからね。どっかの誰かが作った価値観に全部が全部100%すっかり納得できるなんてことあるはずがない。だから都度葛藤がある。葛藤に出会ったら、何します?自分って何者?なんで葛藤感じるの?何が原因?どことどことがコンフリクト起こしているの?いろいろ考えさせられますよね。どこまで突っ込むかなんてのは個人個人バラバラだろうけど。考えてそれが中途半端に終わったって構わないでしょう。いけないのは、全く考えないふりをして、葛藤なんてもんは全部社会とか他人とかに丸投げにすること。現代日本はそれがゆるされている。理屈嫌い、自己抑制、社会配慮に調和重視。全く問題ない。やっぱりいけないのは、自分に対するウソ。理屈が性に合わないのなら、そのように理解しなければ。自己抑制できているというのなら、自己抑制の意味ぐらいは知っていなければ。空気読めるのならできるはずですよね。言ってしまえば、みんな空気読めなくなってきてるのよ。気づいてないだろうけど。先述のとおり、空気読むにはそれなりにやることやっているのですよ。なんでそれなりのことやっているはずなのに、わたしたちの暮らす世の中はどんよりした空気しか流れていないのかな?理由は簡単。それなりにやっていることにどっか見落としがあるから。それは理屈嫌いでも、考えてみるしかない。でもすぐ答えとか求めちゃだめよ。それではほとんど現状と変化ないから。信じましょう。考えることは無駄ではない。切れ切れ散り散りで全く世の中の用を足さないと思えても。思考は現実化するなんて魔法のような言葉があったけれど、これは真実であり、ウソでもある。だってそんなもん直接つながってるわけないんだもの。ただ覚えておいてほしいのは、わたしたちは一人ひとり、自然の中で生きていて、一人ひとりが自然世界と人間世界とをつなぐための情報を受け取っている存在であるということ。私たち一人ひとりの生身の体しかないのです。世の中が一体どんな風になっているのかなんとなくでも察知するための媒体は。考えないというのは、これは嘘で、考えないでいられる人間なんてどこにもいないんだけども、もしそのような態度を一生通し続けるということができるなら、その人は、何が起こっているかわからない状況の中で、敢て何が起こったって気にしない、という態度をとっているということ。これは世の中で自分が生きるということは、自分の責任さえとっておれば何も問題なんてないだろうというシンプルな人間観、世界観の人にしかとれない態度。何がいけないって、生きている以上間違いなく自然界から受け取っているはずの様々な情報について、そんなもん受け取ってません、とウソを言っているところ。究極的には、人なんてどのように生きたって構わない。でもね。どのように生きていたって、あなたは社会の一部を形成してしまっている。人間って生きているだけで、自然界からの情報を受け取っては、それについての自分なりの解釈を発信してしまっているのです。これはマジックでもおとぎ話でもないのです。意識を持った人間が生きるってそういうことなのです。ん?僕?ああ。僕マシーンですから。なんつったってそれはあなたの解釈。信じてくれる人がいるとしても、本物のマシーンにはなれない。少し落ち着いて、無駄と思えるようなこと、全く世の中にとって意味がありそうにないことも、意味あるような感じで受け止めてみる。そんなとこからかなぁ~。理屈で人生深みを増していければいいんですが。。。リーダーシップとか責任感とかはとりあえず考え癖つけなきゃ。。何も変わらんやろな。。。



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