Friday, June 20, 2014

サッカーは文化だ!!

2014W杯ブラジル大会も開幕後1週間が過ぎ、グループステージも2節が終わろうとしている。ご存知の通り我が日本代表は2節を終えて1敗1分け。勝ち点1でグループCの3位(ギリシャとの得失点差による)。このグループ突破が非常に厳しいものとなっている途中経過よりも、おそらく多くのサポーター、もしくは日本人だしとりあえず代表チームを応援しているという人々をもっともがっかりさせているのは、我が代表の「戦いぶり」にあると推察される。(私自身もあまりに血沸き肉踊らなさ過ぎてものすごい空虚感に苛まれました。)
ネットしか情報源がないので実態はよくわからないものの、非常に曖昧なものとは分かりつつも、「気持ち」であるとか「戦う姿勢」であるとか、この面白くなさ加減を多くの人がいろんな形で表現しようとしているように見受けられる。(監督の采配、戦術の是非などなども持ち出して。。。)
果たしてこの曖昧さ、本当に曖昧なのだろうか?
TV画面を通しての情報だけで何がわかる?と言われればそれまでなのだが、同じTV画面を通して見る他国チームの戦いぶりと比べて、私の血が沸かず、肉踊らないのは厳然たる事実なのだ。曖昧というのは認めるが、事実は事実だ。
それでいろいろと考えていて、ふと思いついたのがタイトルの通り。
サッカーは文化なんだろうと。
他国代表チームの試合と、我が代表チームの試合で、決定的に違うと感じるのが、ワイルドさ。前者にはあって、後者にはない。違う言い方をするとおとなしい、とか、お行儀がよい、という感じ。で?一体それって何が原因なのだろうか?と勝手に考えを進めてみたのだが、同じ走る、という行為一つとってみても、ほとばしり出るような気合い、というか、「気合」なんて言ってしまうと、まだお行儀のいい人々の世界のお話で、たとえるならば食いしばった口の脇の方からよだれがどれーんと垂れてこんばかりの、半ば狂乱者の風情とでもいおうか、そういったワイルドさが、我が代表からは感じられない。(もっともイメージ的には近いと感じられる岡崎選手ですら、大会前の体調不良のせいもあってか、いや、多分そうでなくとも、「よだれ」までのワイルドさは感じない。)そんなんいったら、じゃあ他国代表チームの選手達は狂乱した野獣たちなのか?とか反問されるだろう。(あとでも述べるがこの反問、容易なつっこみに走る文化も、文化なので、サッカーにも影響があるのだが。。。)勿論そんなわけはない。劇画じゃないんだからね。ただ私の感覚、直観が「違う」とシグナルを送ってきているだけのこと。ではでは、またまた、「ふん。そんな超私的なあるかないかもわからんもので何をほざくか?」という反応になることは容易に推測されるのだが、ともかく進める。
今の例は「走る」を例として挙げたけれど、サッカーの試合というのは常に流れていて、様々な局面が次々と展開されるので、選手たちは本当にいろいろな動きが求められる。つまりは局面局面で、サッカー選手だからそれなりに読み、などはできるのだろうが、都度爆裂的な反応が求められるということなのだろう。だからちょっとした、ほんのわずか、0.0何秒というオーダーの反応速度の違いが異なる結果をもたらすはずで、単純な体の反応のみならず、どういった判断を下すか?という内容の違いもあるわけだから、ともかくとある局面を前にして、反応が敵よりもいちいちミリ秒単位でも遅い、というのは案外致命的なのではないか?と考えられるのだ。要するに、これは事前練習で反射神経を鍛えるとか、テクニックのバリエーションを増やすとか、判断能力を鍛えるとか、そういうものではカバーしきれるものではなくて、その場その場での貪欲さ、反応速度がどーのこーのとか、局面での最適解だとかではなく、後で聞かれれば「ああ。そりゃ定石。セオリーさ。」とはいえるかもしれないけれど、プレーの時点じゃんなこたぁ全く考えてなんかいられない、という次元の話なのではないか?と。
で。さらに勝手に進めると、何で我が代表チームが、私からすると「あれ?もっと何かできるんじゃなかったっけ?」と不審に思えるぐらい、何もできなかったように見えたのか?勿論W杯。本気出してないわけなんてない。気合い?ないわけないじゃん。じゃあテク?テクは相当上手と思う。でもだめだった。。やっぱり局面局面で相手に勝ててないんじゃないか?と。さらに一生懸命やっている選手本人たちが一番、「あれ?何でイメージどおりにいかないの?」と不審に思っていたのではないか?と。
コンディション調整の失敗というのもあったのかもしれないけれど。この「局面局面で勝れなかったことの連続」説は結構有力であるように思われるのだ。血沸き肉踊らなかったことの原因として。
じゃあなんで2010年は2勝もできたのだろう?多分なるべく局面勝負の数を減らしたからだろう。だから再三言われる「弱者のサッカー」みたいな非常に高慢ともいえるいわれなき自己批判が起こったのにも、いわれなき、だけど理由はあったのだと思う。
強者のサッカーとは、では、局面で拮抗した戦いを挑み、そして勝つサッカーだろう。
で。それって日本の文化に照らして可能なのか?というのが私の論点なのだ。
体力ではない。だってそんなもんいきなりガタイが立派になることなんてないし、速く走る、パワーをつける、なんて言ったって生まれ持っての能力の違いを劇的に変えることなんてできないんだもの。
文化なの。私の論点はあくまでも文化。変えられそうに見えてなかなか変えられないものだから。
よだれどれーんのワイルドさが社会的、文化的に抑制されている国のサッカーでは、局面局面の戦いを挑むなんて無理だろう、ということなのだ。
考えてみてほしい。サッカーは90分間もある。素人目にはだらだら同じフィールドを行ったり来たり。でも選手達はそこで目の前に現れる局面局面に、敵と相対しながら迅速的確に反応し続けなければならないのだ。局面の数って何個あると思います??文字通りCountlessなんですよ。そんな戦いの場面でよだれどれーんのワイルドさんと、「よだれ??んなもんかっこわるいっしょ。見てる人にも不快だし」とか言ってる人が、90分間も戦って、後者が勝ち切れますかね?まず無理。勝ちたいなら、「弱者」だろうがなんだろうが、局面勝負は可能な限り減らすしかないのですよ。
念のため確認しておくけど、選手たちは皆本気で戦っていたと思う。でもそれって日本文化でいうところの本気なのです。よだれなんてぜったい垂らさないっていうね。でね?サポーターとかニッポン人。我が代表チームの選手達にだけ「よだれ垂らせよ」って言いますかね?言いますよね。。それがニッポン人ですもの。何が言いたいのかって??根本的にどういうことかがわからないんですよ。「よだれたらすぐらいの本気って何?」ってことが。同じ人間。たまたま日本に生まれたってだけで、「よだれたらしてても気づかないぐらい入れ込む人」が皆無なんてことはありえない。ただし。社会的に抑圧されれば、そんな「バカ」は絶対に激減する。なぜならボーダーは越えた方がいい場面もあるし、そういった判断ができる人だって沢山いるにちがいないけれど、でも、越えなきゃならないような人が、社会的抑圧に反して越えようとする可能性は明らかに少なくなるからだ。生粋のバカというのはそんなにはいないのでね。いたらちょっと怖い社会だけどね。。
さらになんでサッカーは文化とまで言えるのか、というと、考えてみてくださいよ、生まれた時から誰それさんはサッカーの日本代表になる、なんてわかります?わかるわけないよね。そこまで上り詰めるには否応なしに日本の社会を生き抜かねばならんのですよ。で。何が起こると思います?育成育成言ったって、平気で「結果が全て」とか言ってしまえる素人がわんさかいる環境で、いたいけな子どもたちが結果度外視で鼻水たらして、よだれ垂らしてサッカーみたいな球遊びに入れ込めますかね?多分本物のバカにはほぼ関係ないだろう。もしそのほんもののバカにサッカーに必要な能力の一つや二つでも飛びぬけたものが備わっていたら、おそらく国際的にもかなり有名な選手になるだろう。香川選手なんて能力的には相当スゴイんだと思いますよ。鼻水たらさなくたってあれだけできるんだもの。海外でプレーしている選手達は絶対にこの違いを感じているはず。感じていても出せないのよ。自分らには。だってほんもののバカじゃないし。ああ本田選手ね。多分あの人はほんもののバカだと思う。いかんせん身体的能力がスーパーではないけどね。ただこういうふうに一人ひとりの生まれ持っての資質であるとか性質であるとかを論じても仕方がない。文化なの。文化。なんで?って?究極的にはサッカーってお行儀のよいスポーツじゃないのよ。でもスポーツである以上、一定の枠内でやらされるわけ。で。ニッポンって一旦既成の枠なんてもんがはめられたらさ、その枠がめちゃくちゃ重視されるわけよ。もう枠の方が本質を統御するぐらいに。だから勿論よその国だって戦略立てて、そのプランどおりに動こうという方針は決める。それでも選手一人一人はプランは踏まえても、局面で「どーしよっか?」なんてことはまず考えてない。多分。考えてたらあんなにスピード感ある動きは連続してできないはず。極端に言えば、我が代表は「プラン」があるなら、それに沿った行動をとるべき、というのが先に来て、局面局面では、「ありゃ?半歩足りてねー!なんで~??」の繰り返しだったのではないか?でもね。人類一般で見て、これは非常に特異なこと。だってさ、ふつうサッカーってのが単なる枠の一つでしかないなら、結局中じゃ何やったっていいわけじゃない。枠をはみ出さなければ。なのにニッポンってやつぁ枠に勝手に格式だとか「枠らしさ」みたいなものを設けてしまう。で?何が起こってます?ただの枠が、そうやって勝手に作った「らしさ」みたいな付加的な意味を持たされてしまって、一人ひとりがその付加的意味すら加味して行動しようとするわけ。「弱者のサッカー」。これ典型ね。。強者のサッカーってめちゃしんどいよってことも分からないのにね。。でも、これって仕方がないことなのよ。だって社会で生きていくってそういうことだから。「何か意味があるのよ」ってシグナル受ければ、ああそうなんよね、って肯定的にまず解釈しようとするものなの。はなっから意識的に違反しようとはしないものなの。気づかずに無視することはあっても、意識的に無視するようになるまでには、一旦受けれいて、それにもとづいて経験してみるってことが必要なの。枠に勝手にらしさを求めることはそれはそれで悪いことではない。優美な文化。慮っての言われる前からの気配りなんて、これがなきゃ成り立たない。でもサッカーで、そういったルールでは育ってきていない人々と、まさにしのぎを削り合うような戦いはできない。身体に染みついている反応の仕方が違うんですもの。まあまずはこの違いってのをニッポンに生まれ育つ人々一人ひとりが自覚しなきゃサッカーにだけ適用可能な特別ルール?(「隙間があったら何をおいても飛び込むの。埋めるの。もうそういう風に自然に動きなさい。」)なんて醸成されるわけもないし、だから、実際やってみたら実は勝負できないってことも分からないし、よって我が代表が劇的に異なるパフォーマンスを見せてくれるなんてこともないだろう。要するに、選ばれちゃった後で、あんたらだけ気狂いになりな、なんて言われても(別にみんなして言ってもいいけど)、パフォーマンスは変えられない。
国民一人一人が、サッカー少年をとりまく大人の一人ひとりが、それこそサッカーフィールドさながらに局面局面で「いい」「悪い」を判断してあげられるようなスーパーな文化が育たない限りは、代表の選手だけに根本的に異なる文化を求めても、まさに"から騒ぎ"で終わってしまうに違いない。30分の試合で最初の10分でバテバテになってる子を見て、さかしらに「ペース配分を~」とか言ってるようじゃ、サッカーに必要な体もできはしまい。だってW杯見てたら別にペース配分なんて考えているように見えないもの。それよりも「おー。こいつらまだ走りまくれるんやー」という超人的パフォーマンスに興奮する方が大きい。「ペース配分を~」なんて子どもがいたら、「お前あふぉ?点取られたら終わりやないけ~」ってどやしつけるぐらいでないとね。。繰り返しますが、現代表選手達は本気で頑張っていると思う。必要なのは、本気で頑張るって何?具体的にどういう行動?考え方なの?ってことね。できるできないは別にして、理解することよね。多くの人々が。理解もしない、しようと努力もしないのに、曖昧な「つまらなさ」だけ取り上げてわーわー騒ぐというね。そういった刹那的な態度、一旦自分らは大勢に属しているってことを確認しなければ何もできない、属しているってだけで「正義」の側にいることにして、本質的なことはまずもって考えようとしない、というような文化ね。これ変えなきゃだめよ。変えられなくてもそういうもんなんだなってことぐらいは理解しなきゃね。それが我が代表のパフォーマンスにも少なからず影響しているはずなんだから。「そんなファンタジーなお話信じれるわけない!」とかいう小理屈もとりあえず控えてみる必要はあるよね。
この2試合の面白くなさは厳然たる事実。だってこれだけ違った感覚を持って生きているはずの大勢の人が面白くなかったって感じてるんだからさ。でもね。サッカーは文化だからね。みんなで作ってるものなのさ。そうした本当の意味での参加の意識。持った方がいいね。サッカーに限らず、日本の文化ってものをいいところも悪いところも踏まえて生きていけるって意味でね。鎖国中の島国なら別にそんなもん踏まえなくたっていいけどさ、サッカーだけでなく、もういろんな外国の異なる文化の人々と接する機会があるわけだし、自分らが何者か?無知で接するなんてのは、それこそ、日本的な「らしさ」重視の文化からすれば、全くもって「恰好悪い」ことなんだしね。



Evernote helps you remember everything and get organized effortlessly. Download Evernote.