Saturday, May 21, 2016

Saturday, April 9, 2016

【SBS】第60回会合報告:『変えるべきか創るべきか、それが問題だ――伊藤昌亮〈デモのメディア論〉論』

「関係のための関係」 「ほぼ分析を伴わない表現及び他者の表現の認証及び認証したことを踏まえての表現」の単純繰り返し。
「政治の種類?形態?或は市民の政治意識?的には、昔⇒ちょっと前⇒今また"昔"へ、と(意図せぬ)回帰」が見られるが、これは、個々人のレベルでは、特に今も昔も(ちょっと前も)ほとんど何も変わっていないことの証明なのではないか?つまり、メディアの方が、デモという実体を伴う行動よりも、参加者にとっての実体となっているような、「関係のための関係作り」というと何か新現象?のようにも感じられるが、メディアがいかに多様化しようと、情報の内容が変容しようと、人は別段「分析」はしない。何となくの雰囲気で生きているだけ。というなんというか、分かり切ったことの確認のような感じ。
「分析しない」というと理性(の欠落)の問題のように思われるかもしれないが、実は、この「特に分析はしない」というやり方こそが、私たち人間の'理性'であって、より知的にも心理的にもそして多分体力的にも楽な方を'選択'している、ということではないのか。
そうすることによって生じている不安感はあって、その正体とは、「何か大事なものをぬかしているんだろうなぁ」というなんとなくの罪悪感というか、道徳的な義務不履行の感覚ではないか?と考える。
「特に分析はしない」何となくの'理性'に、この何となくの罪悪感(これはおそらくほぼ消し去ることができないもの)を絡めて、大衆、公衆、群衆の分析をすると面白いのではないか?(今後の社会をどうするのか?新しく創るのか?変えるのか?を分析・議論する上で)
私の印象では、現在のデモおよびSNS等メディア上での活動は、道徳的義務不履行の感覚にはあえて注意は向けず、とりあえず「新しく社会を創る」というストーリーを共同で作っておいて、その実、個々人としては「内にこもる(敢えておっきなところ(世界平和とか )は目指さない。)」を選択しているように見える。結果として現れる社会は、割と似通った階級、思想、趣味のコミュニティに細分化された社会。よって、各々が内に籠ることができている分には十分に安定的であるものの、ややもすると他者敵視戦略が横行して一気に不安定さが露呈するような脆弱な社会に見える。
脆弱性をさらに強めている要素として懸念されるのが、「新しく社会を創る」のストーリーを作る仲間が見つからない人間が相当数いて、これは増加傾向にあるのではないか?ということ。つまり、この層の人々は、他者敵視戦略を積極的にとるグループに比較的容易に動員される可能性が高いと思われ、社会全体にとっての危機となりうるのではないか?
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Friday, December 11, 2015

Sydney bridge

not sure about the name of the bridge

Sydney bridge

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Sydney opera house


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Friday, October 16, 2015

僕が「身体論」を嫌いな訳

最近よく聞く「なんとかと身体」という著述。
私の身体感覚がどうしてもすんなりと受け入れない。
難しいことなのだけれど、身体感覚を重要視するなら、それを「身体感覚」と呼んでは矛盾するのだ。
論ずる以上言葉を使用することは前提とされている。
であるならば、身体感覚を直に説明する論というのは成り立たず、言葉を身体感覚の一部として扱うしかないはず。
「言葉を身体感覚の一部として扱う」とは、少なくとも「身体感覚」を説明概念として使用しないということのはずだ。例えば、言葉は単なる情報媒体ではない、ということを様々な感覚を引いたりしながら、描いていくしかないだろう。つまり、言葉をあたかも私たちが様々感じている物事、言葉にできない雰囲気などなどの分身のようなものとして説明する。或は、言葉を感覚として説明する、とも言えようか。

「言葉を感覚として扱う?」
どうやって???
いや。可能でしょ?
言葉は表象媒体(記号)でもなければ、情報伝達のための道具でもない。
私たちの分身のようなものであると同時に返す刀で私たち自身を形作るもの。
感覚そのものじゃん?言葉って。

身体感覚を身体感覚と呼んでは、身体論の要点が損なわれる、というのは、何かが個人に排他的に属する、というニュアンスを否定できないため、どうしてもそれを「把握」しようとさせる。
これも身体感覚の実体を説明できなくさせる。

要するに、身体感覚といった神秘的な、ちょっとやそっとでは表現できないものについて、「それが大事」と言いたいなら、個人個人の間にある物理的な境界についても、それを前提として語ることはできない、ということ。

それよりもなによりも、「うふふ。。あなたたちは随分ご自身の思い込みに影響されてますね。。だから"本当の"身体感覚を感ずることが難しくなっている。或は、"身体感覚なるものが何か?"がお分かりでない。では、ほんのさわりから伝授申し上げましょう。。」とかって。。。

詐欺師っぽいと感じるのよね。。。

詐欺師になりたくなければ、本人はどれほど身体感覚を鋭敏に保つことが自然かつ重要と信じてはいても、「なんとかと身体感覚」みたいな看板を掲げてはいけないのだ。さもなくば、「自分だけは秘密を知っている」感から逃れられない。これは、意図していなくとも、追従者を「全能を夢見る人」へと導いてしまう。身体感覚というのは誰か個人の固有の所有物などではないのだ。よって、教えたい人も、「知識を与える」という態度ではなく、どちらかというと、協働して、感じ方を工夫しながら高めていく、というスタンスの方がより身体感覚を重視したいという主旨には適合するだろう。

言葉の力というのは別にメッセージの伝達能力ということでもない。
私たちの力、と言ってもいいぐらいのもの。
身体感覚と世に言われているものも全てここに含まれている。
言葉になってしまったら、理性が邪魔をする、と決めつけるのは、実は身体論者の主旨に反するのだ。
むしろ言葉でさえ身体感覚を持って理解できる(すべきだ)し、身体感覚でもって駆使するべきだ、と主張した方がより主旨に沿うはずなのだ。
「理解する・できた」という感覚だって身体感覚と関係あるはずなんだしね。

言葉でもって、詩とか歌とかが成り立つというのも、言葉が身体感覚の一部であることの証拠なんだし。
身体感覚論者としては、このミステリアスで中々腑に落ちにくい言葉の力を、私たちの日常生活で実践的に活用されている能力と関連付けてみる、というのも一つの選択肢であるような気がする。

ともかく、芸能であろうと数学であろうと、表象記号を用いる以上、それらの記号は単なる道具・媒体などではなく、私たちの様々な活動(感じる、感知する、考える、観察する、読むなどなども含む)から、その痕跡のような形で認識操作可能な物的質的性質を獲得していくもの、と前提するべきだろう。記号を使うから抽象性が高くなる?それはそのとおりかもしれないけれど、いかなる記号も私たちの感覚から切り離されはしないのだ。やはり、一見無機的に見える数字などの記号に、私たちの生きている痕跡を感じること、読み取ろうとすることこそが、いわゆる身体論者達の論ずるところを正当なものとするのだろう。



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